「弓浜絣」と「伯州綿」
こんにちは!
仲里です。
先日、「弓浜絣」の展示会に行きまして、
「弓浜絣」と「伯州綿」は、切っても切り離せないものであると改めて感じました。
今回は、私なりに「弓浜絣」(ゆみはまがすり)について、まとめてみました(^^)/
*ブログの内容は、以下の資料を参考にしています。
『新鳥取県史』、『境港市史』、『手わざ 6弓浜絣』
紹介する画像は、「鳥取県」と「米子市立山陰歴史館」からご提供いただいています。

それでは、行ってみましょう!
「弓浜絣」(ゆみはまがすり)は、
鳥取県の西端にある弓浜半島(きゅうひんはんとう)で栽培されている「伯州綿」などから制作される織物です。
深い藍色の地に美しい白抜きの絣柄が映える織物で、 およそ300年前から何世代にもわたって受け継がれてきました。

今回は、鳥取県の伝統的工芸品「弓浜絣」を深堀りしていきます!
少し長いですが、しばしのお付き合いを~( `ー´)ノ

皆さんは、「弓浜絣」と聞いて最初に思い浮かべるもの何でしょうか。

おそらく、一番初めに思い浮かべるものは、何といっても「多様な絵柄」ではないでしょうか。
弓浜絣の絵柄は、鶴亀松竹梅、花鳥風月、幾何文等と様々です(^^♪
絵絣が中心で、日常生活の中のあらゆるものが絣模様にアレンジされています。

この様々な絵柄には、多くの思いが込められています。
ここで、少々時代をさかのぼり、昔のお話を。
かつて、機織りは女性の手で行われていました。
家族のために、より良い着物をと願いと、愛情を込めて「弓浜絣」を織り上げたといいます。
また、嫁入り道具としても、「弓浜絣」は重宝されていました。
嫁入りの際に、着物や寝具などの新しい寝具を持参することが慣例とされ、その描かれた柄は、縁起の良い吉祥文が中心だったといわれています。
家族へ愛情の表現が「弓浜絣」の絵柄になったといっても過言ではありません。

いくつか例を挙げますと、
【 船の錨 】(ふねのいかり)
娘の結婚式には母親は、永い人生航路を二人でともに白髪の生えるまでつれそい幸せであるようにとの願いをこめて、船の錨をかすり模様に織り込んで贈り、前途を祝福したと言われています。

【 鷹 】(たか)
男児を出生すると、松の枝にとまり獲物をねらって飛び立とうとする鋭くたくましい鷹の柄に、新生児の名前を織り込み、この子が将来鷹の如く雄々しく強く育っていくことを願って布団や着物にと心を込めたと言われています。

このように「弓浜絣」は、願いをこめて、大切に織り上げ、大切な人に贈られていたものだったのですね。
改めて絵柄を見ると、様々な思いが広がっていきます。( ;∀;)
次に、「弓浜絣」は、どのような織物なのでしょうか。
少し専門的な表現になりますが、
弓浜絣は、先染め平織りの織物です。
「先染め」とは、布の状態ではなく、糸の状態で染めを行うことさし、「平織り」とは、タテ糸とヨコ糸とが交互に重なり合う織物のことをさします。染め分けをされた「かすり糸」で織り上げ、様々な絵柄を表現していきます。

「弓浜絣」は、非常に多くの工程を経て、作られています。
画像をふまえて、見ていきましょう!(^^♪
弓浜絣の製作工程を図にするとこのようになります!
とにかく、たくさん!( ゚Д゚)

「弓浜絣」の完成までには、「糸つむぎ」「くくり染め」「織り」など、多くの工程を経てつくられます。 その中から、主な工程を紹介します。( `ー´)ノ
【 糸つむぎ 】
原料となる緯糸は、伝統的な紡車を用いて手により紡がれる糸や、機械により紡績された糸を使用します。
ヨコ糸は10~12番手の綿糸を使い、織り上げられています。

【 かすり糸 】
「かすり糸」は、「くくり」という糸の染付の防染技法により、染め分けが行われています。
染め上げる糸を束にして、白く染め抜く部分をヒモ等で巻きつけます。くくられた箇所は、染料の浸透を防ぎ、これにより様々な絵柄の表現が可能となります。

【 藍染 】
「弓浜絣」は、主に藍で染付を行います。
糸を幾重にも重ね「綛(かせ)」と呼ばれる糸の輪を作る。綛に竹竿を通し、絞り回転させながら染料を浸透させていきます。
綛(かせ)を地面にたたきつける「ブツ」とよばれる作業をおこない、時間をかけて染料を浸透させていきます。

【 はたおり 】
「たかはた」と呼ばれる手織機や足踏み織機を使い、絵柄を合わせながら、丁寧に織り上げていきます。

ふ~う。説明しているだけでも、とても長く感じます。
このように「弓浜絣」は多くの工程を経て、大切に織り上げられているのですね。
( *´艸`)
最後に、「弓浜絣の生い立ち」です。
その生い立ちについて定かではなく、弓浜絣の発祥は諸説が存在しています。

一つには、山陰の絣は米子の車尾(くずも)の里に始まったといわれています。
当初、藍作りが導入された弓が浜地方では、宝暦年間(1751~)から灘飛白(なだかすり)の生産が始まり、寛政年間(1789~)には米子の車尾で絞木綿(しぼりもめん)の生産が始まりました。これがやがて「弓浜絣」となったという説があります。
また一つには、境港は、日本海側の重要な寄港地であったため、北前船によって、他の地方の紺絣技法が持ち込まれたという説があります。
藍については、江戸時代後期の文政(1804~18)には米子付近でも葉藍の製造が行われ、鳥取藩では、米子の尾高町新小路に藍の製造場である藍座を設置し、藍玉を製造しました。
天保7年(1836)頃には、会見郡(現在の境港市および米子市、西伯郡の大部分)に133軒の紺屋があったと記録に残っています。
幕末から明治中期にかけて、「綿作り」や「弓浜絣」の生産は最盛期を迎えました。

初め「弓浜絣」は農家の唯一の衣料であり、晴着であり、常用衣であり、野良着として使用されていましたが、後に換金性のある副業として発展していきました。
それに伴い、様々な絵絣が農家の女性たちの手によって織られ、絣の技法はさらなる進歩を遂げたました。正藍で染め上げた「弓浜絣」は、洗えば洗うほど丈夫になり深い色を出したといわれます。

鳥取県の弓浜半島で300年前から受け継がれてきた「弓浜絣」は、国の伝統的工芸品や県の無形文化財の指定を受けて、今日も生き続けています。
はい!
長い内容になりましたが、いかがでしたでしょうか。
歴史の観点からみても「弓浜絣」と「伯州綿」は、決して切り離せないものなのです( `ー´)ノ
「弓浜絣」の製品それ自体も、とても素敵ですが、「絵柄」に込められた思いや、生産背景などを知ると、さらに魅力が引き立ちます♪
現代の「弓浜絣」は、着物や反物だけではなく、ブックカバーや名刺入れなど日常で使えるアイテムが揃っています!
歴史と今に思いを馳せてしまいます(*'ω'*)

今後も、様々な展示会がありますので、皆さんも伝統的工芸品の「弓浜絣」に触れてみてください!
是非、「伯州綿」も、よろしくお願いいたします。(笑)
最後の最後に、「弓浜絣」と「伯州綿」のワンショット(*‘∀‘)

では、また!
参考文献
『新鳥取県史』、『境港市史』、『手わざ 6弓浜絣』
フェイスブックも更新していますので、お見逃しなく!
境港地域おこし協力隊・伯州綿フェイスブック←こちらから
仲里です。
先日、「弓浜絣」の展示会に行きまして、
「弓浜絣」と「伯州綿」は、切っても切り離せないものであると改めて感じました。
今回は、私なりに「弓浜絣」(ゆみはまがすり)について、まとめてみました(^^)/
*ブログの内容は、以下の資料を参考にしています。
『新鳥取県史』、『境港市史』、『手わざ 6弓浜絣』
紹介する画像は、「鳥取県」と「米子市立山陰歴史館」からご提供いただいています。

それでは、行ってみましょう!
「弓浜絣」(ゆみはまがすり)は、
鳥取県の西端にある弓浜半島(きゅうひんはんとう)で栽培されている「伯州綿」などから制作される織物です。
深い藍色の地に美しい白抜きの絣柄が映える織物で、 およそ300年前から何世代にもわたって受け継がれてきました。

今回は、鳥取県の伝統的工芸品「弓浜絣」を深堀りしていきます!
少し長いですが、しばしのお付き合いを~( `ー´)ノ

皆さんは、「弓浜絣」と聞いて最初に思い浮かべるもの何でしょうか。

おそらく、一番初めに思い浮かべるものは、何といっても「多様な絵柄」ではないでしょうか。
弓浜絣の絵柄は、鶴亀松竹梅、花鳥風月、幾何文等と様々です(^^♪
絵絣が中心で、日常生活の中のあらゆるものが絣模様にアレンジされています。

この様々な絵柄には、多くの思いが込められています。
ここで、少々時代をさかのぼり、昔のお話を。
かつて、機織りは女性の手で行われていました。
家族のために、より良い着物をと願いと、愛情を込めて「弓浜絣」を織り上げたといいます。
また、嫁入り道具としても、「弓浜絣」は重宝されていました。
嫁入りの際に、着物や寝具などの新しい寝具を持参することが慣例とされ、その描かれた柄は、縁起の良い吉祥文が中心だったといわれています。
家族へ愛情の表現が「弓浜絣」の絵柄になったといっても過言ではありません。

いくつか例を挙げますと、
【 船の錨 】(ふねのいかり)
娘の結婚式には母親は、永い人生航路を二人でともに白髪の生えるまでつれそい幸せであるようにとの願いをこめて、船の錨をかすり模様に織り込んで贈り、前途を祝福したと言われています。

【 鷹 】(たか)
男児を出生すると、松の枝にとまり獲物をねらって飛び立とうとする鋭くたくましい鷹の柄に、新生児の名前を織り込み、この子が将来鷹の如く雄々しく強く育っていくことを願って布団や着物にと心を込めたと言われています。

このように「弓浜絣」は、願いをこめて、大切に織り上げ、大切な人に贈られていたものだったのですね。
改めて絵柄を見ると、様々な思いが広がっていきます。( ;∀;)
次に、「弓浜絣」は、どのような織物なのでしょうか。
少し専門的な表現になりますが、
弓浜絣は、先染め平織りの織物です。
「先染め」とは、布の状態ではなく、糸の状態で染めを行うことさし、「平織り」とは、タテ糸とヨコ糸とが交互に重なり合う織物のことをさします。染め分けをされた「かすり糸」で織り上げ、様々な絵柄を表現していきます。

「弓浜絣」は、非常に多くの工程を経て、作られています。
画像をふまえて、見ていきましょう!(^^♪
弓浜絣の製作工程を図にするとこのようになります!
とにかく、たくさん!( ゚Д゚)

「弓浜絣」の完成までには、「糸つむぎ」「くくり染め」「織り」など、多くの工程を経てつくられます。 その中から、主な工程を紹介します。( `ー´)ノ
【 糸つむぎ 】
原料となる緯糸は、伝統的な紡車を用いて手により紡がれる糸や、機械により紡績された糸を使用します。
ヨコ糸は10~12番手の綿糸を使い、織り上げられています。

【 かすり糸 】
「かすり糸」は、「くくり」という糸の染付の防染技法により、染め分けが行われています。
染め上げる糸を束にして、白く染め抜く部分をヒモ等で巻きつけます。くくられた箇所は、染料の浸透を防ぎ、これにより様々な絵柄の表現が可能となります。

【 藍染 】
「弓浜絣」は、主に藍で染付を行います。
糸を幾重にも重ね「綛(かせ)」と呼ばれる糸の輪を作る。綛に竹竿を通し、絞り回転させながら染料を浸透させていきます。
綛(かせ)を地面にたたきつける「ブツ」とよばれる作業をおこない、時間をかけて染料を浸透させていきます。

【 はたおり 】
「たかはた」と呼ばれる手織機や足踏み織機を使い、絵柄を合わせながら、丁寧に織り上げていきます。

ふ~う。説明しているだけでも、とても長く感じます。
このように「弓浜絣」は多くの工程を経て、大切に織り上げられているのですね。
( *´艸`)
最後に、「弓浜絣の生い立ち」です。
その生い立ちについて定かではなく、弓浜絣の発祥は諸説が存在しています。

一つには、山陰の絣は米子の車尾(くずも)の里に始まったといわれています。
当初、藍作りが導入された弓が浜地方では、宝暦年間(1751~)から灘飛白(なだかすり)の生産が始まり、寛政年間(1789~)には米子の車尾で絞木綿(しぼりもめん)の生産が始まりました。これがやがて「弓浜絣」となったという説があります。
また一つには、境港は、日本海側の重要な寄港地であったため、北前船によって、他の地方の紺絣技法が持ち込まれたという説があります。
藍については、江戸時代後期の文政(1804~18)には米子付近でも葉藍の製造が行われ、鳥取藩では、米子の尾高町新小路に藍の製造場である藍座を設置し、藍玉を製造しました。
天保7年(1836)頃には、会見郡(現在の境港市および米子市、西伯郡の大部分)に133軒の紺屋があったと記録に残っています。
幕末から明治中期にかけて、「綿作り」や「弓浜絣」の生産は最盛期を迎えました。

初め「弓浜絣」は農家の唯一の衣料であり、晴着であり、常用衣であり、野良着として使用されていましたが、後に換金性のある副業として発展していきました。
それに伴い、様々な絵絣が農家の女性たちの手によって織られ、絣の技法はさらなる進歩を遂げたました。正藍で染め上げた「弓浜絣」は、洗えば洗うほど丈夫になり深い色を出したといわれます。

鳥取県の弓浜半島で300年前から受け継がれてきた「弓浜絣」は、国の伝統的工芸品や県の無形文化財の指定を受けて、今日も生き続けています。
はい!
長い内容になりましたが、いかがでしたでしょうか。
歴史の観点からみても「弓浜絣」と「伯州綿」は、決して切り離せないものなのです( `ー´)ノ
「弓浜絣」の製品それ自体も、とても素敵ですが、「絵柄」に込められた思いや、生産背景などを知ると、さらに魅力が引き立ちます♪
現代の「弓浜絣」は、着物や反物だけではなく、ブックカバーや名刺入れなど日常で使えるアイテムが揃っています!
歴史と今に思いを馳せてしまいます(*'ω'*)

今後も、様々な展示会がありますので、皆さんも伝統的工芸品の「弓浜絣」に触れてみてください!
是非、「伯州綿」も、よろしくお願いいたします。(笑)
最後の最後に、「弓浜絣」と「伯州綿」のワンショット(*‘∀‘)

では、また!
参考文献
『新鳥取県史』、『境港市史』、『手わざ 6弓浜絣』
フェイスブックも更新していますので、お見逃しなく!
境港地域おこし協力隊・伯州綿フェイスブック←こちらから
