こんにちは!
仲里です。
久しぶりのブログの投稿となります。(; ・`д・´)ノ
最近は暑くて暑くて、外出をすると、すぐに汗がでてきますね。(;'∀')
お盆休みが、暑さのピークとのことです。
皆さま、体調管理には、くれぐれもお気お付け願います。
そんな中、畑では伯州綿の花が綺麗に咲いています♪

花が咲き、受粉が行われると、このように実が膨らみ始めます。
およそ一か月後には、真っ白な伯州綿が弾けます。(*^_^*)
いまから、とても楽しみですね。

さっ、今回は、いつにも増して、お堅い内容でございます。(笑)
ブログのテーマは、
『弓浜半島における綿栽培の生い立ち』です。
以前から、紹介したい内容でしたので、いっきにまとめてみました!
伯州綿の歴史を紹介する際に、
「伯州綿は、鳥取県西部の弓浜半島一帯で江戸時代に栽培が始められました。最盛期には国内有数の綿の産地に発展しました。」という説明をします。
伯州綿ファンであれば、耳にタコができるほどご承知ですよね。(笑)
今回は、そのあたりを深堀りしていきます。
多くの資料から集め、まとめた内容ですが、
主に
・『日本農書全集15』(1977年発行)
・『鳥取県の綿花』(1927年発行)
・『境港市史』(1985年発行)を軸に、まとめています。
非常に長くなりまして、三部構成としました。
【第一部】
『日本における綿栽培の生い立ち』
【第二部】
『伯耆国の綿栽培の生い立ち』
【第三部】
『境港市の取り組み』
できるだけ、わかり易くお伝えするためにイラストを作成してみました。
少しでも、理解の助けになると、うれしいです。(^^♪
このブログのポイントは、以下の2つです。
*「弓浜半島の綿栽培は、日本全体からしてみたら、後発組!」
*「伯州綿」とは、伯耆の国で栽培・改良されていった「和綿」
日本の綿栽培にける、弓浜半島の綿栽培とは一体、どのような歴史だったのでしょうか。
では、いってみましょう!

まずは、日本における綿の伝来から。
【第一部】
『日本における綿栽培の生い立ち』
日本に綿が入ってきたのは(延暦18年 799年頃)、奈良時代だったと言われています。
『類聚国史(るいじゅこくし)』によれば、当時の綿は、うまく育てることが出来ずに、途絶えてしまったと記録されています。
その後、明応・永正年間(1492-1520)に、中国または朝鮮のいずれかの国から、再び綿が入ってきたと言われています。

早期の綿に関する歴史的資料は、東日本に偏在しています。
以下は、年代順の羅列となります。
(1494年)、越後で実棉が商品として流通した記録が残されています。
(1510年)、三河で木綿(綿の布)が作られて、奈良の市場に売買されていました。
後に、三河ばかりではなく、遠江・駿河・甲斐・武蔵でも木綿が生産されていました。
(1580年)、武蔵では「木綿売買之宿」があり、周辺農民からの買付けや地方への販売をする商人が出現しています。

その後、幕藩体制(1600~)の成立により、東日本では江戸に、西日本では大坂と京都に中央市場が成立しました。
特に畿内では様々な産業が発展していきました。
その一つとして衣料原料である綿の栽培がありました。
当時、綿の主な肥料であった「干鰯(ほしか)」(魚肥)が、近海の紀伊や和泉などから供給された事情も伴い、17世紀末までの綿生産は、摂津・河内・和泉・播磨・備後に集中しました。

この頃にも様々な種類の「綿」が存在したと言われ、
そのなかでも、「朝鮮」種と呼ばれていた「綿」が、天保年間から幕末にかけて全国の綿産地に爆発的に普及しました。
伝承によれば、慶応3年(1650年)朝鮮人文峰が、対馬藩士国某に「綿」をもたらし、それが本土に伝わり、広島を中心に中国地方で長い年月をかけて栽培されていたといわれています。
この綿が、弓浜半島にも伝わり、伯州綿として改良されていった種であると考えられます。

ふぅ~。
少しここでまとめてみます!
日本における綿栽培の広がり方は以下の通りです。
・15世紀末から16世紀にかけて東日本地域に綿作が入り、17世紀から18世紀中頃まで畿内・瀬戸内が中心となり、18世紀末からは東海・関東・山陰に広がっていきました。
そして、伯州綿のもとをただせば、広島を中心に中国地方に広がっていった「朝鮮」種の「綿」である可能性が高い。
ということです!
つまり、山陰地方である弓浜半島の綿栽培は、日本全体からしてみたら、後発組だったといえます。

ようやく、第一部が終わりました。(;'∀')
ちょっと長かったですね。
少し深呼吸して、次にお進みください。(笑)
【第二部】
『伯耆国の綿栽培の生い立ち』

ようやく、主役の「伯州綿」が登場します。
弓浜半島において、どのように綿栽培が始まったかについては諸説があり、定かではありません。一説には、延宝4年(1676年)に備中玉島(岡山県)から綿実を移入したとされ、または一説には、周防国(現在の山口県)や広島から伝播したとされています。
『境港市史』では、延宝4年、小空の新兵衛が備中玉島から綿の種を移入したものを有力説としています。
何れにせよ、前述のとおり、中国地方に綿が波及し、その後、弓浜半島に綿が伝わり、綿の栽培が始まりました。

当時、入手した綿の種子は、この土地に適さず、栽培が困難なものが多かったそうです。
言い伝えによれば、凶作により何度も種を失い、そのたびに岡山や広島や四国など他の地方から種子を手に入れ、綿栽培を再開したといわれています。
伯耆国は、18世紀中頃まで木綿の消費地でしたが、会見郡の栽培をきっかけとして周辺に綿栽培が広がっていきました。
弓浜半島では、明和・安永(1764~81)以降、急速に綿栽培が普及しました。
嘉永年間(1848年~1855年)になり、研究を重ねた有志者が最優良の一種を選出し、広くこの地に伝えたとされています。
(*「浜の目」とは、弓浜半島の別称です。)

綿は、米や麦と同じように主要作物として扱われ、弓浜半島を縦断する米川用水路の開削と共に、弓浜半島一帯に綿栽培は広がっていきました。
その後も、農家は綿の改良を重ね、弓浜半島一帯で森岡棉、河崎棉、當成棉など様々な良種が選出されていきました。
ここで、
「あれっ? 森岡綿?河崎綿?・・・・って何?」、「伯州綿は?」と思われた方も多いと思います。
「伯州綿」とは「伯耆の国」で栽培・改良されていった綿の総称だといえます。
ここで少し、「伯州綿」という名称の小話を。
・・・・・・・・・・・・・・・
(私の推測を交えておりますので、参考程度にご覧ください。m(__)m)
かつて、この地域では様々な品種の綿が育てられ改良されていきました。
(先ほど紹介した、「森岡棉」、「河崎棉」、「當成棉」など。)
地元の人達は、弓浜半島で生産される「綿」は、品種の違いはあれ、すべてを総称して「浜綿(はまわた」と呼んでいたと思われます。
現在でも、少しお年を召した方は、「伯州綿」ではなく、「浜綿」という方が親しみがあるとお聞きします。
では、「伯州綿」という名称は、何なのでしょうか?
いくつかの文献を調べていると「伯州綿」と「浜綿」のそれぞれの名称を見ることができます。
よくよく調べてみると、
山陰地方で出版されているものには、「浜綿」、
他の地域で出版されているものには、「伯州綿」と記載されています。
つまり、「伯州綿」いう名称は、「浜綿」が他の地域に出荷されるときなどに、産元がわかり易いように使用されていた一種の「ブランド名」だったのだと思います。
大正十一年に、天皇に献上されている「綿」にも、「伯州綿」という名称がつけられています。
「浜綿」よりも「伯州綿」のほうが、産元が一目瞭然でわかり易いですね。
「あっ!、伯州(伯耆)の綿だ。」みたいな。(笑)

・・・・・・・・・・・・・・・
さて、話をもとの流れに戻します。
『鳥取藩史』に綿栽培に関して、以下のように書かれています。
「藩民のうける利益は大きい、その産地はほとんどが伯耆で、会見郡米子浜の目が最も盛んである。」
(*「浜の目」とは、弓浜半島の別称です。)
全国農産表によれば、明治10年において、県内における綿生産高3700万斤のうち、その9割近くが会見郡で栽培指されていました。そして会見郡の綿は、ほとんどが「浜の目」と呼ばれていた弓ヶ浜半島一帯で生産されていたものでした。
生産高をグラフにしてみるとより分かりやすいですね♪

明治10年頃には河内・摂津・三河・尾張に次いで全国五位の生産を示し、全国比では4.7%と低率ではありますが、弓浜半島という一地区に生産が集中しているのは注目に値します。
(^^♪
明治14年には、摂津・河内に次いで、三位となっています。
またまた、生産高をグラフにしてみるとより分かりやすいですね♪♪

またまた、ここで小話を。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
では、なぜ伯耆国の綿生産量が、全国でもトップレベルになったのでしょうか?

その大きな要因として、綿栽培に使用されていた「肥料の高騰」があげられます。
当時の肥料とは、「干鰯(ほしか)」や「ニシン粕」などに代表される「魚肥」のことでした。
肥料の高騰により、全国的に綿栽培が困難になり、多くの産地は減少していきました。
弓浜半島でも「魚肥」が使用されていましたが、主に中海・隠岐から採れる海藻を肥料として使用していたため、この時期に急速に綿栽培が広がっていったとされています。
つまり、他の産地が肥料の高騰で、生産量が落ち込む中、その影響をほとんど受けていない伯耆国の綿栽培が発展していったということです。( `―´)ノ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
はい!もとの流れに戻します。
最盛期の明治維新後には、弓浜半島一帯の畑地は、綿で覆われ、鳥取県の綿の9割がこの地方で生産されていたといいます。

(画像:『米子・境港・西伯・日野ふるさと大百科』より)
しかし、明治29年(1896年)の輸入関税の撤廃による安価な外国産の綿の流入と、その後の養蚕業の発達に伴い大打撃を受け、次第に綿栽培は衰退していき、多くの綿畑は、桑(クワ)や甘藷(さつまいも)に代わっていきました。
しかしながら、日本綿は海外の綿に比べ、脱脂綿や中入綿等として優良である特質を持っていたため、その後は激しい栽培面積の増減はなく、綿の栽培は行われていました。

大正4年(1915年)以来、農林省より特別の補助金を受けて綿花に関する試験研究を重ね、今日の優良品種を選出することとなりました。
その頃、既に靑木綿、夜見屋綿、大篠津綿、當成綿、藤原綿、森岡綿、鹿右衛門綿、紫蘇棉の八種は純系種が完成しており、採種畑を設け原種の生産に努めて、多くの農業者の希望に応じ各地に配付されていたといわれています。


(画像: 『鳥取県の綿花』より)
『鳥取県の綿花』という書籍に、当時の栽培のことや・歴史のことや・研究の成果などが詳しく記載されています。

その後は、時代と共に栽培面積は減少していきました。(-_-;)
【第三部】
『境港市の取り組み』
長い年月が経ち、『伯州綿を復活』させる取り組みが始まりました。
それこそが、境港市で行われている伯州綿事業です。
境港市では、平成20年度から失われかけた綿畑を再興し、伝統的な地域資源を後世へ継承していく取り組みが始まりました。
農地の中間管理をしている境港市農業公社では、遊休農地を活用して、「伯州綿栽培サポーター」や「地域おこし協力隊」とともに、農薬や化学肥料を使わない、人や自然環境に配慮した安心・安全の綿づくりを行っています。('ω')ノ

農薬や化学肥料を使わない綿づくりには、たくさんの人の手が必要となります。
栽培サポーターは、安心・安全の綿づくりを支える地域の有志の方々です。 (*^_^*)

境港市では、伯州綿で作った「おくるみ」を境港市で生まれた赤ちゃんに、「ひざかけ」を100歳を迎えられる方へ毎年贈呈しています。(^^♪

伯州綿を原料にした様々な商品を展開しています。♪

農薬や化学肥料を使用せず、大切に育てています。('ω')ノ

はい!
今回のブログは、とても長い「読み物」になってしまいました。(;'∀')
ここまで、お付き合いいただき、本当に有難うございました。m(__)m
どうしても、まとめたくて、ついにやってしまいました。(笑)
如何でしたでしょうか?
少しでも「伯州綿」に興味・愛着を持っていただけたら、幸いです。
伯州綿をたどっていくと、色々なことが分かってきます。
そして、現代の私たちにつながっている。
なんだかとっても、不思議な気分です。
【終わりに】
今回は情報量が、非常に多かったですね。(;'∀')
書いている私も、「いつ終わるかなぁ・・・」って思って、構成していました。(笑)
実は、伯州綿紹介の第二段として控えているものがあります。('ω')ノ
現在進行中ですが、「弓浜半島と伯州綿」という内容をまとめています。
今回の内容を、もっと細分化して弓浜半島と伯州綿の繋がりを紹介するものとなります。
以下の七つの項目です。
・綿の生長に適している砂州
・水源の確保 ~綿井戸~
・潤沢な肥料 ~里海の特権~
・地域に根付いた文化 ~弓浜絣~
・土地の利 ~北前船の寄港地~
・伯州綿栽培における功労者
・大正時代以降の伯州綿栽培・改良
「弓浜半島と伯州綿」の導入文句はこのような感じです。(笑)
「かつて弓浜半島が、「伯州綿」の一大産地になったのには、様々な要因がありました。
弓浜半島は砂州で形成されているため、肥沃な土地とは言えません。
しかし、自然条件が綿栽培に適していたことや、地域に根付いた文化や、「綿」の改良の積み重ねにより、「綿」の一大産地となりました。では、弓浜半島と伯州綿の繋がりを、詳しく見ていきましょう!」
っです!
『弓浜半島と伯州綿』

私、仲里は境港市民図書館で『綿講座』を行っており、次回は9月の末に予定しています。
その内容が上記の「弓浜半島と伯州綿」です。
お伝えしたい内容を一言で表すと、
「この土地だからこそ、綿の一大産地になることができた。」ということです。
弓浜半島と伯州綿の繋がりを、分かりやすく紹介できたらと思います。
もし、ご興味がありましたら、是非ご参加ください。(*^_^*)
詳しくは、境港市民図書館までお問い合わせください。
(境港市民図書館 TEL:0859-47-1099)
では、また!
フェイスブックも更新していますので、お見逃しなく!
境港地域おこし協力隊・伯州綿フェイスブック←こちらから
伯州綿のWEBサイト←こちらから。

仲里です。
久しぶりのブログの投稿となります。(; ・`д・´)ノ
最近は暑くて暑くて、外出をすると、すぐに汗がでてきますね。(;'∀')
お盆休みが、暑さのピークとのことです。
皆さま、体調管理には、くれぐれもお気お付け願います。
そんな中、畑では伯州綿の花が綺麗に咲いています♪

花が咲き、受粉が行われると、このように実が膨らみ始めます。
およそ一か月後には、真っ白な伯州綿が弾けます。(*^_^*)
いまから、とても楽しみですね。

さっ、今回は、いつにも増して、お堅い内容でございます。(笑)
ブログのテーマは、
『弓浜半島における綿栽培の生い立ち』です。
以前から、紹介したい内容でしたので、いっきにまとめてみました!
伯州綿の歴史を紹介する際に、
「伯州綿は、鳥取県西部の弓浜半島一帯で江戸時代に栽培が始められました。最盛期には国内有数の綿の産地に発展しました。」という説明をします。
伯州綿ファンであれば、耳にタコができるほどご承知ですよね。(笑)
今回は、そのあたりを深堀りしていきます。
多くの資料から集め、まとめた内容ですが、
主に
・『日本農書全集15』(1977年発行)
・『鳥取県の綿花』(1927年発行)
・『境港市史』(1985年発行)を軸に、まとめています。
非常に長くなりまして、三部構成としました。
【第一部】
『日本における綿栽培の生い立ち』
【第二部】
『伯耆国の綿栽培の生い立ち』
【第三部】
『境港市の取り組み』
できるだけ、わかり易くお伝えするためにイラストを作成してみました。
少しでも、理解の助けになると、うれしいです。(^^♪
このブログのポイントは、以下の2つです。
*「弓浜半島の綿栽培は、日本全体からしてみたら、後発組!」
*「伯州綿」とは、伯耆の国で栽培・改良されていった「和綿」
日本の綿栽培にける、弓浜半島の綿栽培とは一体、どのような歴史だったのでしょうか。
では、いってみましょう!

まずは、日本における綿の伝来から。
【第一部】
『日本における綿栽培の生い立ち』
日本に綿が入ってきたのは(延暦18年 799年頃)、奈良時代だったと言われています。
『類聚国史(るいじゅこくし)』によれば、当時の綿は、うまく育てることが出来ずに、途絶えてしまったと記録されています。
その後、明応・永正年間(1492-1520)に、中国または朝鮮のいずれかの国から、再び綿が入ってきたと言われています。

早期の綿に関する歴史的資料は、東日本に偏在しています。
以下は、年代順の羅列となります。
(1494年)、越後で実棉が商品として流通した記録が残されています。
(1510年)、三河で木綿(綿の布)が作られて、奈良の市場に売買されていました。
後に、三河ばかりではなく、遠江・駿河・甲斐・武蔵でも木綿が生産されていました。
(1580年)、武蔵では「木綿売買之宿」があり、周辺農民からの買付けや地方への販売をする商人が出現しています。

その後、幕藩体制(1600~)の成立により、東日本では江戸に、西日本では大坂と京都に中央市場が成立しました。
特に畿内では様々な産業が発展していきました。
その一つとして衣料原料である綿の栽培がありました。
当時、綿の主な肥料であった「干鰯(ほしか)」(魚肥)が、近海の紀伊や和泉などから供給された事情も伴い、17世紀末までの綿生産は、摂津・河内・和泉・播磨・備後に集中しました。

この頃にも様々な種類の「綿」が存在したと言われ、
そのなかでも、「朝鮮」種と呼ばれていた「綿」が、天保年間から幕末にかけて全国の綿産地に爆発的に普及しました。
伝承によれば、慶応3年(1650年)朝鮮人文峰が、対馬藩士国某に「綿」をもたらし、それが本土に伝わり、広島を中心に中国地方で長い年月をかけて栽培されていたといわれています。
この綿が、弓浜半島にも伝わり、伯州綿として改良されていった種であると考えられます。

ふぅ~。
少しここでまとめてみます!
日本における綿栽培の広がり方は以下の通りです。
・15世紀末から16世紀にかけて東日本地域に綿作が入り、17世紀から18世紀中頃まで畿内・瀬戸内が中心となり、18世紀末からは東海・関東・山陰に広がっていきました。
そして、伯州綿のもとをただせば、広島を中心に中国地方に広がっていった「朝鮮」種の「綿」である可能性が高い。
ということです!
つまり、山陰地方である弓浜半島の綿栽培は、日本全体からしてみたら、後発組だったといえます。

ようやく、第一部が終わりました。(;'∀')
ちょっと長かったですね。
少し深呼吸して、次にお進みください。(笑)
【第二部】
『伯耆国の綿栽培の生い立ち』

ようやく、主役の「伯州綿」が登場します。
弓浜半島において、どのように綿栽培が始まったかについては諸説があり、定かではありません。一説には、延宝4年(1676年)に備中玉島(岡山県)から綿実を移入したとされ、または一説には、周防国(現在の山口県)や広島から伝播したとされています。
『境港市史』では、延宝4年、小空の新兵衛が備中玉島から綿の種を移入したものを有力説としています。
何れにせよ、前述のとおり、中国地方に綿が波及し、その後、弓浜半島に綿が伝わり、綿の栽培が始まりました。

当時、入手した綿の種子は、この土地に適さず、栽培が困難なものが多かったそうです。
言い伝えによれば、凶作により何度も種を失い、そのたびに岡山や広島や四国など他の地方から種子を手に入れ、綿栽培を再開したといわれています。
伯耆国は、18世紀中頃まで木綿の消費地でしたが、会見郡の栽培をきっかけとして周辺に綿栽培が広がっていきました。
弓浜半島では、明和・安永(1764~81)以降、急速に綿栽培が普及しました。
嘉永年間(1848年~1855年)になり、研究を重ねた有志者が最優良の一種を選出し、広くこの地に伝えたとされています。
(*「浜の目」とは、弓浜半島の別称です。)

綿は、米や麦と同じように主要作物として扱われ、弓浜半島を縦断する米川用水路の開削と共に、弓浜半島一帯に綿栽培は広がっていきました。
その後も、農家は綿の改良を重ね、弓浜半島一帯で森岡棉、河崎棉、當成棉など様々な良種が選出されていきました。
ここで、
「あれっ? 森岡綿?河崎綿?・・・・って何?」、「伯州綿は?」と思われた方も多いと思います。
「伯州綿」とは「伯耆の国」で栽培・改良されていった綿の総称だといえます。
ここで少し、「伯州綿」という名称の小話を。
・・・・・・・・・・・・・・・
(私の推測を交えておりますので、参考程度にご覧ください。m(__)m)
かつて、この地域では様々な品種の綿が育てられ改良されていきました。
(先ほど紹介した、「森岡棉」、「河崎棉」、「當成棉」など。)
地元の人達は、弓浜半島で生産される「綿」は、品種の違いはあれ、すべてを総称して「浜綿(はまわた」と呼んでいたと思われます。
現在でも、少しお年を召した方は、「伯州綿」ではなく、「浜綿」という方が親しみがあるとお聞きします。
では、「伯州綿」という名称は、何なのでしょうか?
いくつかの文献を調べていると「伯州綿」と「浜綿」のそれぞれの名称を見ることができます。
よくよく調べてみると、
山陰地方で出版されているものには、「浜綿」、
他の地域で出版されているものには、「伯州綿」と記載されています。
つまり、「伯州綿」いう名称は、「浜綿」が他の地域に出荷されるときなどに、産元がわかり易いように使用されていた一種の「ブランド名」だったのだと思います。
大正十一年に、天皇に献上されている「綿」にも、「伯州綿」という名称がつけられています。
「浜綿」よりも「伯州綿」のほうが、産元が一目瞭然でわかり易いですね。
「あっ!、伯州(伯耆)の綿だ。」みたいな。(笑)

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さて、話をもとの流れに戻します。
『鳥取藩史』に綿栽培に関して、以下のように書かれています。
「藩民のうける利益は大きい、その産地はほとんどが伯耆で、会見郡米子浜の目が最も盛んである。」
(*「浜の目」とは、弓浜半島の別称です。)
全国農産表によれば、明治10年において、県内における綿生産高3700万斤のうち、その9割近くが会見郡で栽培指されていました。そして会見郡の綿は、ほとんどが「浜の目」と呼ばれていた弓ヶ浜半島一帯で生産されていたものでした。
生産高をグラフにしてみるとより分かりやすいですね♪

明治10年頃には河内・摂津・三河・尾張に次いで全国五位の生産を示し、全国比では4.7%と低率ではありますが、弓浜半島という一地区に生産が集中しているのは注目に値します。
(^^♪
明治14年には、摂津・河内に次いで、三位となっています。
またまた、生産高をグラフにしてみるとより分かりやすいですね♪♪

またまた、ここで小話を。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
では、なぜ伯耆国の綿生産量が、全国でもトップレベルになったのでしょうか?

その大きな要因として、綿栽培に使用されていた「肥料の高騰」があげられます。
当時の肥料とは、「干鰯(ほしか)」や「ニシン粕」などに代表される「魚肥」のことでした。
肥料の高騰により、全国的に綿栽培が困難になり、多くの産地は減少していきました。
弓浜半島でも「魚肥」が使用されていましたが、主に中海・隠岐から採れる海藻を肥料として使用していたため、この時期に急速に綿栽培が広がっていったとされています。
つまり、他の産地が肥料の高騰で、生産量が落ち込む中、その影響をほとんど受けていない伯耆国の綿栽培が発展していったということです。( `―´)ノ
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はい!もとの流れに戻します。
最盛期の明治維新後には、弓浜半島一帯の畑地は、綿で覆われ、鳥取県の綿の9割がこの地方で生産されていたといいます。

(画像:『米子・境港・西伯・日野ふるさと大百科』より)
しかし、明治29年(1896年)の輸入関税の撤廃による安価な外国産の綿の流入と、その後の養蚕業の発達に伴い大打撃を受け、次第に綿栽培は衰退していき、多くの綿畑は、桑(クワ)や甘藷(さつまいも)に代わっていきました。
しかしながら、日本綿は海外の綿に比べ、脱脂綿や中入綿等として優良である特質を持っていたため、その後は激しい栽培面積の増減はなく、綿の栽培は行われていました。

大正4年(1915年)以来、農林省より特別の補助金を受けて綿花に関する試験研究を重ね、今日の優良品種を選出することとなりました。
その頃、既に靑木綿、夜見屋綿、大篠津綿、當成綿、藤原綿、森岡綿、鹿右衛門綿、紫蘇棉の八種は純系種が完成しており、採種畑を設け原種の生産に努めて、多くの農業者の希望に応じ各地に配付されていたといわれています。


(画像: 『鳥取県の綿花』より)
『鳥取県の綿花』という書籍に、当時の栽培のことや・歴史のことや・研究の成果などが詳しく記載されています。

その後は、時代と共に栽培面積は減少していきました。(-_-;)
【第三部】
『境港市の取り組み』
長い年月が経ち、『伯州綿を復活』させる取り組みが始まりました。
それこそが、境港市で行われている伯州綿事業です。
境港市では、平成20年度から失われかけた綿畑を再興し、伝統的な地域資源を後世へ継承していく取り組みが始まりました。
農地の中間管理をしている境港市農業公社では、遊休農地を活用して、「伯州綿栽培サポーター」や「地域おこし協力隊」とともに、農薬や化学肥料を使わない、人や自然環境に配慮した安心・安全の綿づくりを行っています。('ω')ノ

農薬や化学肥料を使わない綿づくりには、たくさんの人の手が必要となります。
栽培サポーターは、安心・安全の綿づくりを支える地域の有志の方々です。 (*^_^*)

境港市では、伯州綿で作った「おくるみ」を境港市で生まれた赤ちゃんに、「ひざかけ」を100歳を迎えられる方へ毎年贈呈しています。(^^♪

伯州綿を原料にした様々な商品を展開しています。♪

農薬や化学肥料を使用せず、大切に育てています。('ω')ノ

はい!
今回のブログは、とても長い「読み物」になってしまいました。(;'∀')
ここまで、お付き合いいただき、本当に有難うございました。m(__)m
どうしても、まとめたくて、ついにやってしまいました。(笑)
如何でしたでしょうか?
少しでも「伯州綿」に興味・愛着を持っていただけたら、幸いです。
伯州綿をたどっていくと、色々なことが分かってきます。
そして、現代の私たちにつながっている。
なんだかとっても、不思議な気分です。
【終わりに】
今回は情報量が、非常に多かったですね。(;'∀')
書いている私も、「いつ終わるかなぁ・・・」って思って、構成していました。(笑)
実は、伯州綿紹介の第二段として控えているものがあります。('ω')ノ
現在進行中ですが、「弓浜半島と伯州綿」という内容をまとめています。
今回の内容を、もっと細分化して弓浜半島と伯州綿の繋がりを紹介するものとなります。
以下の七つの項目です。
・綿の生長に適している砂州
・水源の確保 ~綿井戸~
・潤沢な肥料 ~里海の特権~
・地域に根付いた文化 ~弓浜絣~
・土地の利 ~北前船の寄港地~
・伯州綿栽培における功労者
・大正時代以降の伯州綿栽培・改良
「弓浜半島と伯州綿」の導入文句はこのような感じです。(笑)
「かつて弓浜半島が、「伯州綿」の一大産地になったのには、様々な要因がありました。
弓浜半島は砂州で形成されているため、肥沃な土地とは言えません。
しかし、自然条件が綿栽培に適していたことや、地域に根付いた文化や、「綿」の改良の積み重ねにより、「綿」の一大産地となりました。では、弓浜半島と伯州綿の繋がりを、詳しく見ていきましょう!」
っです!
『弓浜半島と伯州綿』

私、仲里は境港市民図書館で『綿講座』を行っており、次回は9月の末に予定しています。
その内容が上記の「弓浜半島と伯州綿」です。
お伝えしたい内容を一言で表すと、
「この土地だからこそ、綿の一大産地になることができた。」ということです。
弓浜半島と伯州綿の繋がりを、分かりやすく紹介できたらと思います。
もし、ご興味がありましたら、是非ご参加ください。(*^_^*)
詳しくは、境港市民図書館までお問い合わせください。
(境港市民図書館 TEL:0859-47-1099)
では、また!
フェイスブックも更新していますので、お見逃しなく!
境港地域おこし協力隊・伯州綿フェイスブック←こちらから
伯州綿のWEBサイト←こちらから。

