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境港市地域おこし協力隊

Author:境港市地域おこし協力隊
 
鳥取県境港市で「地域おこし協力隊」として活動しています。

伝統の特産物 “伯州綿 (はくしゅうめん)” の栽培や商品づくり、販路拡大に取り組み中。

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「境の港の発展」と「伯州綿」~北前船~の巻!

こんにちは!
仲里です。

最近は寒さも和らぎ、ポカポカ陽気の日も多くなりました。
畑で作業をしていると、少し汗ばんできます。('ω')ノ


先日、ポカポカ陽気に誘われて、「境水道大橋」から境港市を一望してきました!

北前船16

晴れの日は、潮風がとても心地良いです。

北前船17

眺めがとっても良いですね♪

北前船13

カモメたちも気持ち良さげ。

北前船20

北前船19

行きかう船も気持ち良さげ。

北前船18

美保湾(日本海)に向かう船♪

北前船21




この「境水道大橋」は、島根半島と境港市を繋ぐ高さ40mの大きな橋。
下を流れるのは、美保湾と中海(中海)を結ぶ、「境水道」と呼ばれる海峡状の水域です。
長さは約7~8km 、幅は200m~600m!

長い! 広い!

上空から見ると、このような感じです。

境水道説明図



どうでしょうか。何となく「境水道」の雰囲気をお分かりいただけたでしょうか。



さっ、前振りが長くなりましたが、今回のテーマは、「境の港の発展」と「伯州綿」です!
文章多めですが、可能な限り、分かりやすく紹介いたしますので、お付き合いください。m(__)m




弓浜半島で「伯州綿」が栽培され、どのようにして全国に届けられていたのかを、
「境の港」の発展を踏まえて、少し深堀りをしてきます!


それでは、行ってみましょう!( `ー´)ノ


まず最初に、短めに「境の港」の発展の経緯を。
境の港が、古い時代に港として存在していたと伝える記録は少なく、港として役割を持ち始めたのは江戸時代初期の寛永末期以降(およそ1638年~)とされています。その後、江戸時代中期以降(江戸時代中期は、およそ1716年~1829年ころ)にかけてに急速な発展を遂げました。

幕末弓ヶ濱絵図2
(幕末の弓ヶ濱絵図)






境港市は、「綿と鉄の海運で栄えた町」!


境港の歴史は、「綿」と「鉄」の歴史でもありました。
境港の発展につながるものとして弓ヶ浜を産地とする「綿」と、日野郡を産地とする「鉄」の生産・流通が挙げられます。
弓ヶ浜の綿栽培と、ほぼ同じくして日本海航路の主役となった北前船が、これら主要生産品であった綿や木綿、鉄等の買い入れ行うことにより、境港は急速に発展していきました。
境港は「綿」と「鉄」の生産・流通に深くかかわり、江戸・明治期の国内における商品流通の土台を支えました。


つまり・・・・・・・、柔らかい「綿」と、硬い「鉄」で”さかえ”たんですね!('◇')ゞ
(どうしても言いたかったです。)(笑)



はい! 気を取り直して、進めていきます!
下の図は「北前船」の航路を表したものです。

旧日本地図北前船航路

境港に入港した「北前船」は、綿の栽培に必要なニシンなどの魚肥を降ろし、弓浜部特産の「伯州綿」、日野郡産の「鉄」などを買い込み、境港は活気に満ち、急速に発展していきました。
江戸時代末期には、境港商人の中には交易船を持って他国まで交易の手を広げた者もあらわれました。
また、「北前船」は、綿や木綿・鉄などのほか混載品として、米や海産物などの日用品も輸送していたことで、他国の人々が行き交い、交易の幅も大きく広がりました。
山陰一と言われた良港と、弓ヶ浜という綿作地を控えた境港は、大坂(阪)方面から山陰・北陸・東北の秋田に及ぶ広い地域に綿や木綿を移出することで、大きく発展していくこととなりました。




最盛期の明治初年には、およそ2000隻の船が航行していたといわれています。

最盛期より、少し後ですが、「境の港」の様子を現しているのが、こちらの銅板画です。各地の船で賑わう様子が描かれています。
この銅版画を見ると、当時の活気がうかがえますね。(*^_^*)

境港之真景
(境港之真景 明治29年)制作当時の境港

明治29年(1896年)10月、境港は開港外外国貿易港に指定され、明治35年(年)には、鉄道工事も始まり、人々の期待が一段と盛り上がりました。
この『境港之真景図』は、この時期には、千石船だけではなく、汽船が就航する様子も描かれています。
少し先の話になりますが、日本海交易の主役であった「北前船」も、やがて明治になり汽船が就航するようになると、次第にその座を明け渡していったとされています。


「境港之真景」を詳しく見ていくと、興味深いことが分かってきます。

用意したのは、このセット。

『境港之真景』と『山陰商工便覧』と・・・・・・「虫メガネ」!

北前船10


「虫メガネ!?」、そうなんです。
字が小さすぎて、見えないんです。"(-""-)"

拡大しながら、良~くみてきましょう!( `ー´)ノ

北前せん12

様々な船の往来が見とれます。

境港之真景詳細2

「小学校」、「警察署」、「裁判所」、また様々お店などの名称が記載されています。

境港之真景詳細3

その中で
「第八十二國立銀行」、「植田回漕店」、「武良回漕店」、「渡邊回漕店」、「香川旅館」と記載されており、実は次に紹介する『山陰商工便覧』にお店の銅版画が掲載されています!


では、明治20年に出版された『山陰道商工便覧』の銅版画を見ていきましょう。( `ー´)ノ

山陰商工便覧


【 第八十二國立銀行 】
第八十二國立銀行2


【 植田回漕店 】
植田回漕店


【 渡邊回漕店 】
渡邊回漕店


【 香川旅館 】
香川旅館


『境港之真景図』からは見つけることができませんでしたが、その他にも『山陰道商工便覧』には、様々な商いの様子が描かれています。



『境港之真景図』と『山陰道商工便覧』を照らし合わせると、当時の活気がより伝わってきます♪








『山陰道商工便覧』に描かれている「武良回漕店」の武良惣平さんは、『ゲゲゲの鬼太郎』の作者:水木しげる先生の三代前の曾祖父にあたる方です。
当時、回船問屋を営んでおり、この地域で算出される「鉄」や「伯州綿」を関西や東北地方に北前船で運び、商いをしていました。

【 武良回漕店 】
諸国回漕店 武良惣平


武良惣平さんは、各地に「引き札」を残しています。
「引き札」とは、現代のチラシ・広告に相当しており、元禄年間(1677­-1704)頃に始まったとされ、文化・文政年間(1804-30)以降盛んにつくられていたといわれています。
それまでの広告といえば、看板や暖簾・口上ぐらいであったものが、商品の流通の活発に伴い大店をはじめとして商店が「引き札」を配るようになりました。
明治30年頃の船問屋武良惣平らの「引き札」が加賀地方でも発見されています。

「引き札」を見ていると、当時の活気が伝わってきますね。(*^_^*)

引き札3枚組
(「引き札」・武良惣平・山本貞市・黒見繁吉)




北前船により「伯州綿」は様々なかたちで運ばれました。
種を取っただけの「繰綿」や「糸」や「白木綿(布)」、また、輸出量は少なかったとされていますが、完成品としての「弓浜絣」まで含まれていました。
境港では素材から製品までのすべてを生産・移出することができたのです。

北前船


このようにして「伯州綿」は、弓ヶ浜の綿栽培に適した風土と港という地理的条件によって、大きく生産を伸ばし、全国に名を馳せていきました。

北前せん14


最後に、
「境さんこ節」に歌われていた一部を紹介いたします。

境の港が「北前船」の交易により発展しことは、唄からもよくわかります。

♪♪♪♪♪♪

さても見事や 境の港
東の入口御台場で
西は御為替御倉なり
千石船でも横づけに
伝馬いらずの良い港
少し離れて遊亀町
玉屋に飴屋に丹波の茶屋・・・

♪♪♪♪♪♪♪

*伝馬=伝馬船(てんまふね) : 大型の船に付属して陸岸との往来などの作業に従事する小型の船のこと。







はい!以上です!
「伯州綿」を中心に、「境の港の発展」と「伯州綿」をまとめてみました。('ω')ノ

今回も、かなりのボリュームになってしまいました。
お付き合いいただき、有難うございました。m(__)m


境水道大橋から、一望すると、
かつては「綿」が、この境港から「北前船」によって全国に広がっていったという歴史が、グッと近づいてくるような気がしました
。('ω')ノ

今回は、【 「境の港の発展」と「伯州綿」 】というテーマでまとめてみましたが、うまくお伝えできたでしょうか。(;'∀')
「伯州綿」にまつわる歴史を調べ、まとめる作業をしていると、この弓浜半島だからこそ、「伯州綿」の一大産地となれたのだと改めて感じます。


今後も、「弓浜半島」と「伯州綿」についてご紹介していきたいと思っています。
是非、お付き合いくださいね。m(__)m


では、また!

参考資料
『境港市史』
『新修境港市史(写真資料編)』
『山陰商工便覧』

フェイスブックも更新していますので、お見逃しなく!
境港地域おこし協力隊・伯州綿フェイスブック←こちらから

弓浜半島の成り立ち~伯州綿と砂州~

こんにちは!
仲里です。

このブログは昨年2019年12月29日に投稿したものです。
諸事情により、こちらに移動いたしました。

何卒、宜しくお願い致します。m(__)m


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こんにちは!

今年も残すところ、あと僅かとなりました。
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
私は、来年のことを考えながら、ソワソワしています。(笑)



今回は、「弓浜半島の成り立ち」と「砂州」がメインの話題となります。('ω')ノ
何卒、お付き合い願います!


いきなり、メインの話題からそれますが・・・・、
最近の私のブームは、弓浜半島(きゅうひんはんとう)に出来つつある「サイクリングコース」を走ることです!

潮風に吹かれ、白波が立ち、大山(だいせん)に向い鼻歌混じりに、自転車をこぐ♪
晴れの日にはもってこいの、気分転換となっております!

弓浜半島の成り立ち10

自転車に乗りながら、ふと思うことは、弓浜半島の綺麗さです。
名前の通り、「弓なりに砂浜が続く半島」♪
「サイクリングコース」を走っていると、その綺麗さが良くわかります。



こちらは島根半島からの航空写真。
綺麗に「弓なり」♪

弓浜半島成り立ち31


更には、大山の山頂からの眺め。
こんなに弓形なんですね♪
ここまでくると、かなり弓浜半島マニアですね。(;'∀')

弓浜半島の成り立ち16








眺めも素晴らしいですが、この「弓浜半島の成り立ち」も魅力的です。

弓浜半島は「砂州で形成されている。」とは、良く耳にします。
そして、この「砂地」のおかげで、「綿」の一大産地となったとも言われています。


どのようにして、綿作に適した土地「弓浜半島」が形成されたのか見ていきたいと思います。
弓浜半島の「砂地」にクローズアップです!

弓浜半島成り立ち36

私が暮らしている弓浜半島の成り立ちを調べていくと、非常に興味深い内容でしたので、皆様に紹介したいと思いました。(*^_^*)
是非、お付き合いください。






では、行ってみましょう!

前置きとして、「弓浜半島」はここにあります!(笑)
「日本」→「鳥取県」→「弓浜半島」

当然、伯州綿ファンはご存知ですよね。(笑)( `ー´)ノ

弓浜半島(日本地図位置)
(画像はGoogleEarthより作成)


弓浜半島の成り立ちについて、『境港市史』には、このように書かれています。

「中海と美保湾を分ける弓ヶ浜半島は、長さ約18㎞幅約4㎞の全国でも珍しい大規模な砂州と砂丘からなる半島で、地質的には第四紀層に属する沖績地である。」

半島の形成は、主に日野川による砂礫の供給、海面水位の変化、気象変化(海流、波風、洪水など)の影響により、現在の「弓の形」に至ったとされています。


図で説明すると、このような具合です。

弓浜半島成り立ち1
(図は『弓浜半島とその周辺』を参考に作成)

沖積層とは約2万年前の最終氷期最盛期以降に堆積した地質学的には最も新しい地層だそうです。
では、どのように「綺麗な弓の形」が作られていったのか年代順に見ていきましょう!

*「弓浜半島成り立ち」については、『境港市史』のなかで紹介されている佐々木謙氏の研究をもとにご紹介いたします。
(図は佐々木謙氏『弓浜変遷説明図』を参照しています。)


【縄文前期】
点線は、現在の弓浜半島を現したものです。
このころは、半島は無かったようです。

弓浜半島成り立ち2


【縄文期】
徐々に、砂礫が堆積し、島が出来ています。

弓浜半島成り立ち3


【弥生期(古墳・大和期)】
島や半島が広がり、伸びています。

弓浜半島成り立ち4


【奈良期】
もうそろそろで繋がりそうです。

弓浜半島成り立ち5


【平安期・鎌倉・南北朝・室町】
長い年月をかけ、「夜見嶋」は、日本列島とつながりました。

弓浜半島成り立ち6


【戦国・江戸中期】
ようやく、このあたりで現在の「弓浜半島」が出来てきました。

弓浜半島成り立ち7





こうして見ていくと、300~500年前頃に「弓の形」が作られたようです。
数々の条件が、合致して今の「弓浜半島」があるのですね。
まさに奇跡の半島!

うぅ~ん。
非常に感慨深いものがあります。(^_^;)

弓浜半島成り立ち31

このようにして「弓浜半島」は、「砂州」で形成されたのですね!(*^_^*)










ようやく、伯州綿の話題に戻ります。(笑)

この「砂地」が、綿の栽培に適していると言われています。


綿栽培における「砂地」の優位性は、『鳥取県の棉花』には以下のように記載されています。

「砂質は水はけが良いため、肥料の分解が早くなり、それゆえ綿は早熟となる。
さらに砂地からの反射熱により吐絮した棉花は繊維の撚曲が強くなる。
これにより弾力を増し、良い品質の綿が 生産されるのである。」
(『鳥取県の綿花』より。)

弓浜半島成り立ち37


実際に畑で作業していると、砂地からの照り返しは、非常に強いと感じます。(;'∀')
このような特性を持つ「砂州」で形成されている弓浜半島だからこそ、綿栽培の適地となり、「伯州綿」の一大産地となり得たのですね。(^_^)/~




「弓浜半島の成り立ち」と「伯州綿の砂州」について簡単にですが、まとめてみました。(*'ω'*)

弓浜半島の成り立ち19







話は弓浜半島のサイクリングロードに戻ります♪


弓ヶ浜サイクリングコースは2020年4月までに全ルートが完成する予定です。
日本海と大山の両方を眺めながら走ることができ、砂浜や松林の中を走る変化に富んだルート。傾斜がほとんどなく、初級者でも気軽にサイクリングを楽しむことができます。

弓浜半島の成り立ち11

弓浜半島成り立ち30
(画像は「とりネット」より転用)

疲れたら、浜辺のベンチで、ちょっと休憩をしたり、
さらには、境港の美味しい「海の幸」も堪能できます♪

「来たれ!全国のサイクリスト!」
弓浜半島が、サイクリストの「あこがれの聖地」になる日も近いもしれませんね。(笑)

弓浜半島成り立ち35



ここまで、お付き合いくださり、有難うございました。m(__)m

「伯州綿」は、土地の利を利用して一大産地となったことを考えながら、弓浜半島の「サイクリングコース」を走っていると、歴史に思いを馳せ、色々なことが想像できます♪






本年も残すところあと僅かとなりました。
今年も様々な活動を行ってきましたが、これも皆様のご支援のお陰であり、大変感謝しております。m(__)m
来る年が、皆様にとって良い年でありますように。

来年も「伯州綿」を宜しくお願い致します!


良いお年をお迎えください。
では、また!

弓浜半島の成り立ち20


参考資料
「境港市史」
「弓浜半島とその周辺」

フェイスブックも更新していますので、お見逃しなく!
境港地域おこし協力隊・伯州綿フェイスブック←こちらから

「弓浜絣」と「伯州綿」

こんにちは!
仲里です。

先日、「弓浜絣」の展示会に行きまして、
「弓浜絣」と「伯州綿」は、切っても切り離せないものであると改めて感じました。
今回は、私なりに「弓浜絣」(ゆみはまがすり)について、まとめてみました(^^)/

*ブログの内容は、以下の資料を参考にしています。
『新鳥取県史』、『境港市史』、『手わざ 6弓浜絣』
紹介する画像は、「鳥取県」と「米子市立山陰歴史館」からご提供いただいています。

弓浜絣15



それでは、行ってみましょう!

「弓浜絣」(ゆみはまがすり)は、
鳥取県の西端にある弓浜半島(きゅうひんはんとう)で栽培されている「伯州綿」などから制作される織物です。
深い藍色の地に美しい白抜きの絣柄が映える織物で、 およそ300年前から何世代にもわたって受け継がれてきました。

弓浜絣51



今回は、鳥取県の伝統的工芸品「弓浜絣」を深堀りしていきます!
少し長いですが、しばしのお付き合いを~( `ー´)ノ

弓浜絣4






皆さんは、「弓浜絣」と聞いて最初に思い浮かべるもの何でしょうか。

弓浜絣36



おそらく、一番初めに思い浮かべるものは、何といっても「多様な絵柄」ではないでしょうか。

弓浜絣の絵柄は、鶴亀松竹梅、花鳥風月、幾何文等と様々です(^^♪
絵絣が中心で、日常生活の中のあらゆるものが絣模様にアレンジされています。

弓浜絣35



この様々な絵柄には、多くの思いが込められています。




ここで、少々時代をさかのぼり、昔のお話を。

かつて、機織りは女性の手で行われていました。
家族のために、より良い着物をと願いと、愛情を込めて「弓浜絣」を織り上げたといいます。
また、嫁入り道具としても、「弓浜絣」は重宝されていました。
嫁入りの際に、着物や寝具などの新しい寝具を持参することが慣例とされ、その描かれた柄は、縁起の良い吉祥文が中心だったといわれています。
家族へ愛情の表現が「弓浜絣」の絵柄になったといっても過言ではありません。

弓浜絣4柄



いくつか例を挙げますと、


【 船の錨 】(ふねのいかり)

娘の結婚式には母親は、永い人生航路を二人でともに白髪の生えるまでつれそい幸せであるようにとの願いをこめて、船の錨をかすり模様に織り込んで贈り、前途を祝福したと言われています。

弓浜絣39



【 鷹 】(たか)

男児を出生すると、松の枝にとまり獲物をねらって飛び立とうとする鋭くたくましい鷹の柄に、新生児の名前を織り込み、この子が将来鷹の如く雄々しく強く育っていくことを願って布団や着物にと心を込めたと言われています。

弓浜絣9



このように「弓浜絣」は、願いをこめて、大切に織り上げ、大切な人に贈られていたものだったのですね。
改めて絵柄を見ると、様々な思いが広がっていきます。( ;∀;)







次に、「弓浜絣」は、どのような織物なのでしょうか。

少し専門的な表現になりますが、
弓浜絣は、先染め平織りの織物です。
「先染め」とは、布の状態ではなく、糸の状態で染めを行うことさし、「平織り」とは、タテ糸とヨコ糸とが交互に重なり合う織物のことをさします。染め分けをされた「かすり糸」で織り上げ、様々な絵柄を表現していきます。

弓浜絣7


「弓浜絣」は、非常に多くの工程を経て、作られています。
画像をふまえて、見ていきましょう!(^^♪

弓浜絣の製作工程を図にするとこのようになります!
とにかく、たくさん!( ゚Д゚)

弓浜絣57




「弓浜絣」の完成までには、「糸つむぎ」「くくり染め」「織り」など、多くの工程を経てつくられます。 その中から、主な工程を紹介します。( `ー´)ノ




【 糸つむぎ 】
原料となる緯糸は、伝統的な紡車を用いて手により紡がれる糸や、機械により紡績された糸を使用します。
ヨコ糸は10~12番手の綿糸を使い、織り上げられています。

弓浜絣21


【 かすり糸 】
「かすり糸」は、「くくり」という糸の染付の防染技法により、染め分けが行われています。
染め上げる糸を束にして、白く染め抜く部分をヒモ等で巻きつけます。くくられた箇所は、染料の浸透を防ぎ、これにより様々な絵柄の表現が可能となります。

弓浜絣27


【 藍染 】
「弓浜絣」は、主に藍で染付を行います。
糸を幾重にも重ね「綛(かせ)」と呼ばれる糸の輪を作る。綛に竹竿を通し、絞り回転させながら染料を浸透させていきます。
綛(かせ)を地面にたたきつける「ブツ」とよばれる作業をおこない、時間をかけて染料を浸透させていきます。

弓浜絣25


【 はたおり 】
「たかはた」と呼ばれる手織機や足踏み織機を使い、絵柄を合わせながら、丁寧に織り上げていきます。

弓浜絣23


ふ~う。説明しているだけでも、とても長く感じます。
このように「弓浜絣」は多くの工程を経て、大切に織り上げられているのですね。
( *´艸`)








最後に、「弓浜絣の生い立ち」です。
その生い立ちについて定かではなく、弓浜絣の発祥は諸説が存在しています。

弓浜絣6


一つには、山陰の絣は米子の車尾(くずも)の里に始まったといわれています。
当初、藍作りが導入された弓が浜地方では、宝暦年間(1751~)から灘飛白(なだかすり)の生産が始まり、寛政年間(1789~)には米子の車尾で絞木綿(しぼりもめん)の生産が始まりました。これがやがて「弓浜絣」となったという説があります。

また一つには、境港は、日本海側の重要な寄港地であったため、北前船によって、他の地方の紺絣技法が持ち込まれたという説があります。

藍については、江戸時代後期の文政(1804~18)には米子付近でも葉藍の製造が行われ、鳥取藩では、米子の尾高町新小路に藍の製造場である藍座を設置し、藍玉を製造しました。
天保7年(1836)頃には、会見郡(現在の境港市および米子市、西伯郡の大部分)に133軒の紺屋があったと記録に残っています。
幕末から明治中期にかけて、「綿作り」や「弓浜絣」の生産は最盛期を迎えました。

弓浜絣5

初め「弓浜絣」は農家の唯一の衣料であり、晴着であり、常用衣であり、野良着として使用されていましたが、後に換金性のある副業として発展していきました。
それに伴い、様々な絵絣が農家の女性たちの手によって織られ、絣の技法はさらなる進歩を遂げたました。正藍で染め上げた「弓浜絣」は、洗えば洗うほど丈夫になり深い色を出したといわれます。

弓浜絣52


鳥取県の弓浜半島で300年前から受け継がれてきた「弓浜絣」は、国の伝統的工芸品や県の無形文化財の指定を受けて、今日も生き続けています。




はい!
長い内容になりましたが、いかがでしたでしょうか。
歴史の観点からみても「弓浜絣」と「伯州綿」は、決して切り離せないものなのです( `ー´)ノ
「弓浜絣」の製品それ自体も、とても素敵ですが、「絵柄」に込められた思いや、生産背景などを知ると、さらに魅力が引き立ちます♪

現代の「弓浜絣」は、着物や反物だけではなく、ブックカバーや名刺入れなど日常で使えるアイテムが揃っています!
歴史と今に思いを馳せてしまいます(*'ω'*)

弓浜絣53

今後も、様々な展示会がありますので、皆さんも伝統的工芸品の「弓浜絣」に触れてみてください!
是非、「伯州綿」も、よろしくお願いいたします。(笑)


最後の最後に、「弓浜絣」と「伯州綿」のワンショット(*‘∀‘)

弓浜絣56


では、また!

参考文献
『新鳥取県史』、『境港市史』、『手わざ 6弓浜絣』

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