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境港市地域おこし協力隊

Author:境港市地域おこし協力隊
 
鳥取県境港市で「地域おこし協力隊」として活動しています。

伝統の特産物 “伯州綿 (はくしゅうめん)” の栽培や商品づくり、販路拡大に取り組み中。

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『弓浜半島における綿栽培の生い立ち』を、いっきにまとめてみました!

こんにちは!

仲里です。
久しぶりのブログの投稿となります。(; ・`д・´)ノ

最近は暑くて暑くて、外出をすると、すぐに汗がでてきますね。(;'∀')
お盆休みが、暑さのピークとのことです。
皆さま、体調管理には、くれぐれもお気お付け願います。

そんな中、畑では伯州綿の花が綺麗に咲いています♪

伯州綿の花0809

花が咲き、受粉が行われると、このように実が膨らみ始めます。
およそ一か月後には、真っ白な伯州綿が弾けます。(*^_^*)

いまから、とても楽しみですね。

コットンボール0809




さっ、今回は、いつにも増して、お堅い内容でございます。(笑)





ブログのテーマは、
『弓浜半島における綿栽培の生い立ち』です。



以前から、紹介したい内容でしたので、いっきにまとめてみました!



伯州綿の歴史を紹介する際に、
「伯州綿は、鳥取県西部の弓浜半島一帯で江戸時代に栽培が始められました。最盛期には国内有数の綿の産地に発展しました。」という説明をします。

伯州綿ファンであれば、耳にタコができるほどご承知ですよね。(笑)


今回は、そのあたりを深堀りしていきます。

多くの資料から集め、まとめた内容ですが、
主に
・『日本農書全集15』(1977年発行)
・『鳥取県の綿花』(1927年発行)
・『境港市史』(1985年発行)を軸に、まとめています。


非常に長くなりまして、三部構成としました。

【第一部】
『日本における綿栽培の生い立ち』

【第二部】
『伯耆国の綿栽培の生い立ち』

【第三部】
『境港市の取り組み』

できるだけ、わかり易くお伝えするためにイラストを作成してみました。
少しでも、理解の助けになると、うれしいです。(^^♪

このブログのポイントは、以下の2つです。

*「弓浜半島の綿栽培は、日本全体からしてみたら、後発組!」

*「伯州綿」とは、伯耆の国で栽培・改良されていった「和綿」




日本の綿栽培にける、弓浜半島の綿栽培とは一体、どのような歴史だったのでしょうか。
では、いってみましょう!

境港真景図





まずは、日本における綿の伝来から。


【第一部】
『日本における綿栽培の生い立ち』



日本に綿が入ってきたのは(延暦18年 799年頃)、奈良時代だったと言われています。
『類聚国史(るいじゅこくし)』によれば、当時の綿は、うまく育てることが出来ずに、途絶えてしまったと記録されています。



その後、明応・永正年間(1492-1520)に、中国または朝鮮のいずれかの国から、再び綿が入ってきたと言われています。

綿の再伝来(1492-1520)


早期の綿に関する歴史的資料は、東日本に偏在しています。
以下は、年代順の羅列となります。

(1494年)、越後で実棉が商品として流通した記録が残されています。
(1510年)、三河で木綿(綿の布)が作られて、奈良の市場に売買されていました。
後に、三河ばかりではなく、遠江・駿河・甲斐・武蔵でも木綿が生産されていました。
(1580年)、武蔵では「木綿売買之宿」があり、周辺農民からの買付けや地方への販売をする商人が出現しています。


始まり6



その後、幕藩体制(1600~)の成立により、東日本では江戸に、西日本では大坂と京都に中央市場が成立しました。
特に畿内では様々な産業が発展していきました。
その一つとして衣料原料である綿の栽培がありました。

当時、綿の主な肥料であった「干鰯(ほしか)」(魚肥)が、近海の紀伊や和泉などから供給された事情も伴い、17世紀末までの綿生産は、摂津・河内・和泉・播磨・備後に集中しました。



始まり1


この頃にも様々な種類の「綿」が存在したと言われ、
そのなかでも、「朝鮮」種と呼ばれていた「綿」が、天保年間から幕末にかけて全国の綿産地に爆発的に普及しました。
伝承によれば、慶応3年(1650年)朝鮮人文峰が、対馬藩士国某に「綿」をもたらし、それが本土に伝わり、広島を中心に中国地方で長い年月をかけて栽培されていたといわれています。
この綿が、弓浜半島にも伝わり、伯州綿として改良されていった種であると考えられます。

始まり2










ふぅ~。
少しここでまとめてみます!
日本における綿栽培の広がり方は以下の通りです。

・15世紀末から16世紀にかけて東日本地域に綿作が入り、17世紀から18世紀中頃まで畿内・瀬戸内が中心となり、18世紀末からは東海・関東・山陰に広がっていきました。
そして、伯州綿のもとをただせば、広島を中心に中国地方に広がっていった「朝鮮」種の「綿」である可能性が高い。
ということです!

つまり、山陰地方である弓浜半島の綿栽培は、日本全体からしてみたら、後発組だったといえます。

始まり5c



ようやく、第一部が終わりました。(;'∀')
ちょっと長かったですね。

少し深呼吸して、次にお進みください。(笑)









【第二部】
『伯耆国の綿栽培の生い立ち』


弓浜半島成り立ち31



ようやく、主役の「伯州綿」が登場します。

弓浜半島において、どのように綿栽培が始まったかについては諸説があり、定かではありません。一説には、延宝4年(1676年)に備中玉島(岡山県)から綿実を移入したとされ、または一説には、周防国(現在の山口県)や広島から伝播したとされています。
『境港市史』では、延宝4年、小空の新兵衛が備中玉島から綿の種を移入したものを有力説としています。

何れにせよ、前述のとおり、中国地方に綿が波及し、その後、弓浜半島に綿が伝わり、綿の栽培が始まりました。


綿の伝来2

当時、入手した綿の種子は、この土地に適さず、栽培が困難なものが多かったそうです。
言い伝えによれば、凶作により何度も種を失い、そのたびに岡山や広島や四国など他の地方から種子を手に入れ、綿栽培を再開したといわれています。

伯耆国は、18世紀中頃まで木綿の消費地でしたが、会見郡の栽培をきっかけとして周辺に綿栽培が広がっていきました。
弓浜半島では、明和・安永(1764~81)以降、急速に綿栽培が普及しました。
嘉永年間(1848年~1855年)になり、研究を重ねた有志者が最優良の一種を選出し、広くこの地に伝えたとされています。

(*「浜の目」とは、弓浜半島の別称です。)
始まり3



綿は、米や麦と同じように主要作物として扱われ、弓浜半島を縦断する米川用水路の開削と共に、弓浜半島一帯に綿栽培は広がっていきました。
その後も、農家は綿の改良を重ね、弓浜半島一帯で森岡棉、河崎棉、當成棉など様々な良種が選出されていきました。



ここで、
「あれっ? 森岡綿?河崎綿?・・・・って何?」、「伯州綿は?」と思われた方も多いと思います。


「伯州綿」とは「伯耆の国」で栽培・改良されていった綿の総称だといえます。


ここで少し、「伯州綿」という名称の小話を。
・・・・・・・・・・・・・・・
(私の推測を交えておりますので、参考程度にご覧ください。m(__)m)

かつて、この地域では様々な品種の綿が育てられ改良されていきました。
(先ほど紹介した、「森岡棉」、「河崎棉」、「當成棉」など。)
地元の人達は、弓浜半島で生産される「綿」は、品種の違いはあれ、すべてを総称して「浜綿(はまわた」と呼んでいたと思われます。
現在でも、少しお年を召した方は、「伯州綿」ではなく、「浜綿」という方が親しみがあるとお聞きします。

では、「伯州綿」という名称は、何なのでしょうか?

いくつかの文献を調べていると「伯州綿」と「浜綿」のそれぞれの名称を見ることができます。
よくよく調べてみると、
山陰地方で出版されているものには、「浜綿」、
他の地域で出版されているものには、「伯州綿」と記載されています。

つまり、「伯州綿」いう名称は、「浜綿」が他の地域に出荷されるときなどに、産元がわかり易いように使用されていた一種の「ブランド名」だったのだと思います。

大正十一年に、天皇に献上されている「綿」にも、「伯州綿」という名称がつけられています。
「浜綿」よりも「伯州綿」のほうが、産元が一目瞭然でわかり易いですね。
「あっ!、伯州(伯耆)の綿だ。」みたいな。(笑)

謙譲綿


・・・・・・・・・・・・・・・




さて、話をもとの流れに戻します。

『鳥取藩史』に綿栽培に関して、以下のように書かれています。
「藩民のうける利益は大きい、その産地はほとんどが伯耆で、会見郡米子浜の目が最も盛んである。」
(*「浜の目」とは、弓浜半島の別称です。)

全国農産表によれば、明治10年において、県内における綿生産高3700万斤のうち、その9割近くが会見郡で栽培指されていました。そして会見郡の綿は、ほとんどが「浜の目」と呼ばれていた弓ヶ浜半島一帯で生産されていたものでした。
生産高をグラフにしてみるとより分かりやすいですね♪

鳥取島根地図群2

明治10年頃には河内・摂津・三河・尾張に次いで全国五位の生産を示し、全国比では4.7%と低率ではありますが、弓浜半島という一地区に生産が集中しているのは注目に値します。
(^^♪

明治14年には、摂津・河内に次いで、三位となっています。
またまた、生産高をグラフにしてみるとより分かりやすいですね♪♪

旧日本地図0504


またまた、ここで小話を。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

では、なぜ伯耆国の綿生産量が、全国でもトップレベルになったのでしょうか?

ワタ白黒1


その大きな要因として、綿栽培に使用されていた「肥料の高騰」があげられます。
当時の肥料とは、「干鰯(ほしか)」や「ニシン粕」などに代表される「魚肥」のことでした。
肥料の高騰により、全国的に綿栽培が困難になり、多くの産地は減少していきました。

弓浜半島でも「魚肥」が使用されていましたが、主に中海・隠岐から採れる海藻を肥料として使用していたため、この時期に急速に綿栽培が広がっていったとされています。

つまり、他の産地が肥料の高騰で、生産量が落ち込む中、その影響をほとんど受けていない伯耆国の綿栽培が発展していったということです。( `―´)ノ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


はい!もとの流れに戻します。

最盛期の明治維新後には、弓浜半島一帯の畑地は、綿で覆われ、鳥取県の綿の9割がこの地方で生産されていたといいます。

綿摘み(米子・境港・西伯・日野ふるさと大百科)
(画像:『米子・境港・西伯・日野ふるさと大百科』より)

しかし、明治29年(1896年)の輸入関税の撤廃による安価な外国産の綿の流入と、その後の養蚕業の発達に伴い大打撃を受け、次第に綿栽培は衰退していき、多くの綿畑は、桑(クワ)や甘藷(さつまいも)に代わっていきました。



しかしながら、日本綿は海外の綿に比べ、脱脂綿や中入綿等として優良である特質を持っていたため、その後は激しい栽培面積の増減はなく、綿の栽培は行われていました。

imga1_14_20200809001429671.png



大正4年(1915年)以来、農林省より特別の補助金を受けて綿花に関する試験研究を重ね、今日の優良品種を選出することとなりました。
その頃、既に靑木綿、夜見屋綿、大篠津綿、當成綿、藤原綿、森岡綿、鹿右衛門綿、紫蘇棉の八種は純系種が完成しており、採種畑を設け原種の生産に努めて、多くの農業者の希望に応じ各地に配付されていたといわれています。

大正に於ける改良の様子

改良研究『鳥取県の綿花』
(画像: 『鳥取県の綿花』より)


『鳥取県の綿花』という書籍に、当時の栽培のことや・歴史のことや・研究の成果などが詳しく記載されています。

backtext3.png

その後は、時代と共に栽培面積は減少していきました。(-_-;)





【第三部】
『境港市の取り組み』



長い年月が経ち、『伯州綿を復活』させる取り組みが始まりました。
それこそが、境港市で行われている伯州綿事業です。


境港市では、平成20年度から失われかけた綿畑を再興し、伝統的な地域資源を後世へ継承していく取り組みが始まりました。

農地の中間管理をしている境港市農業公社では、遊休農地を活用して、「伯州綿栽培サポーター」や「地域おこし協力隊」とともに、農薬や化学肥料を使わない、人や自然環境に配慮した安心・安全の綿づくりを行っています。('ω')ノ

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農薬や化学肥料を使わない綿づくりには、たくさんの人の手が必要となります。
栽培サポーターは、安心・安全の綿づくりを支える地域の有志の方々です。 (*^_^*)

imageSup1.png


境港市では、伯州綿で作った「おくるみ」を境港市で生まれた赤ちゃんに、「ひざかけ」を100歳を迎えられる方へ毎年贈呈しています。(^^♪

imgB3_2.jpg


伯州綿を原料にした様々な商品を展開しています。♪

productTop6.png

農薬や化学肥料を使用せず、大切に育てています。('ω')ノ

tomiwa3.png






はい!
今回のブログは、とても長い「読み物」になってしまいました。(;'∀')
ここまで、お付き合いいただき、本当に有難うございました。m(__)m
どうしても、まとめたくて、ついにやってしまいました。(笑)


如何でしたでしょうか?
少しでも「伯州綿」に興味・愛着を持っていただけたら、幸いです。

伯州綿をたどっていくと、色々なことが分かってきます。

そして、現代の私たちにつながっている。
なんだかとっても、不思議な気分です。


【終わりに】


今回は情報量が、非常に多かったですね。(;'∀')
書いている私も、「いつ終わるかなぁ・・・」って思って、構成していました。(笑)


実は、伯州綿紹介の第二段として控えているものがあります。('ω')ノ
現在進行中ですが、「弓浜半島と伯州綿」という内容をまとめています。

今回の内容を、もっと細分化して弓浜半島と伯州綿の繋がりを紹介するものとなります。

以下の七つの項目です。

・綿の生長に適している砂州
・水源の確保 ~綿井戸~
・潤沢な肥料 ~里海の特権~
・地域に根付いた文化 ~弓浜絣~
・土地の利 ~北前船の寄港地~
・伯州綿栽培における功労者
・大正時代以降の伯州綿栽培・改良



「弓浜半島と伯州綿」の導入文句はこのような感じです。(笑)

「かつて弓浜半島が、「伯州綿」の一大産地になったのには、様々な要因がありました。
弓浜半島は砂州で形成されているため、肥沃な土地とは言えません。
しかし、自然条件が綿栽培に適していたことや、地域に根付いた文化や、「綿」の改良の積み重ねにより、「綿」の一大産地となりました。では、弓浜半島と伯州綿の繋がりを、詳しく見ていきましょう!」
っです!


『弓浜半島と伯州綿』
ユミーハマー副読本裏ブログ用



私、仲里は境港市民図書館で『綿講座』を行っており、次回は9月の末に予定しています。
その内容が上記の「弓浜半島と伯州綿」です。

お伝えしたい内容を一言で表すと、
「この土地だからこそ、綿の一大産地になることができた。」ということです。
弓浜半島と伯州綿の繋がりを、分かりやすく紹介できたらと思います。

もし、ご興味がありましたら、是非ご参加ください。(*^_^*)

詳しくは、境港市民図書館までお問い合わせください。
(境港市民図書館 TEL:0859-47-1099)


では、また!


フェイスブックも更新していますので、お見逃しなく!
境港地域おこし協力隊・伯州綿フェイスブック←こちらから


伯州綿のWEBサイト←こちらから。
WEB10.png

「境の港の発展」と「伯州綿」~北前船~の巻!

こんにちは!
仲里です。

最近は寒さも和らぎ、ポカポカ陽気の日も多くなりました。
畑で作業をしていると、少し汗ばんできます。('ω')ノ


先日、ポカポカ陽気に誘われて、「境水道大橋」から境港市を一望してきました!

北前船16

晴れの日は、潮風がとても心地良いです。

北前船17

眺めがとっても良いですね♪

北前船13

カモメたちも気持ち良さげ。

北前船20

北前船19

行きかう船も気持ち良さげ。

北前船18

美保湾(日本海)に向かう船♪

北前船21




この「境水道大橋」は、島根半島と境港市を繋ぐ高さ40mの大きな橋。
下を流れるのは、美保湾と中海(中海)を結ぶ、「境水道」と呼ばれる海峡状の水域です。
長さは約7~8km 、幅は200m~600m!

長い! 広い!

上空から見ると、このような感じです。

境水道説明図



どうでしょうか。何となく「境水道」の雰囲気をお分かりいただけたでしょうか。



さっ、前振りが長くなりましたが、今回のテーマは、「境の港の発展」と「伯州綿」です!
文章多めですが、可能な限り、分かりやすく紹介いたしますので、お付き合いください。m(__)m




弓浜半島で「伯州綿」が栽培され、どのようにして全国に届けられていたのかを、
「境の港」の発展を踏まえて、少し深堀りをしてきます!


それでは、行ってみましょう!( `ー´)ノ


まず最初に、短めに「境の港」の発展の経緯を。
境の港が、古い時代に港として存在していたと伝える記録は少なく、港として役割を持ち始めたのは江戸時代初期の寛永末期以降(およそ1638年~)とされています。その後、江戸時代中期以降(江戸時代中期は、およそ1716年~1829年ころ)にかけてに急速な発展を遂げました。

幕末弓ヶ濱絵図2
(幕末の弓ヶ濱絵図)






境港市は、「綿と鉄の海運で栄えた町」!


境港の歴史は、「綿」と「鉄」の歴史でもありました。
境港の発展につながるものとして弓ヶ浜を産地とする「綿」と、日野郡を産地とする「鉄」の生産・流通が挙げられます。
弓ヶ浜の綿栽培と、ほぼ同じくして日本海航路の主役となった北前船が、これら主要生産品であった綿や木綿、鉄等の買い入れ行うことにより、境港は急速に発展していきました。
境港は「綿」と「鉄」の生産・流通に深くかかわり、江戸・明治期の国内における商品流通の土台を支えました。


つまり・・・・・・・、柔らかい「綿」と、硬い「鉄」で”さかえ”たんですね!('◇')ゞ
(どうしても言いたかったです。)(笑)



はい! 気を取り直して、進めていきます!
下の図は「北前船」の航路を表したものです。

旧日本地図北前船航路

境港に入港した「北前船」は、綿の栽培に必要なニシンなどの魚肥を降ろし、弓浜部特産の「伯州綿」、日野郡産の「鉄」などを買い込み、境港は活気に満ち、急速に発展していきました。
江戸時代末期には、境港商人の中には交易船を持って他国まで交易の手を広げた者もあらわれました。
また、「北前船」は、綿や木綿・鉄などのほか混載品として、米や海産物などの日用品も輸送していたことで、他国の人々が行き交い、交易の幅も大きく広がりました。
山陰一と言われた良港と、弓ヶ浜という綿作地を控えた境港は、大坂(阪)方面から山陰・北陸・東北の秋田に及ぶ広い地域に綿や木綿を移出することで、大きく発展していくこととなりました。




最盛期の明治初年には、およそ2000隻の船が航行していたといわれています。

最盛期より、少し後ですが、「境の港」の様子を現しているのが、こちらの銅板画です。各地の船で賑わう様子が描かれています。
この銅版画を見ると、当時の活気がうかがえますね。(*^_^*)

境港之真景
(境港之真景 明治29年)制作当時の境港

明治29年(1896年)10月、境港は開港外外国貿易港に指定され、明治35年(年)には、鉄道工事も始まり、人々の期待が一段と盛り上がりました。
この『境港之真景図』は、この時期には、千石船だけではなく、汽船が就航する様子も描かれています。
少し先の話になりますが、日本海交易の主役であった「北前船」も、やがて明治になり汽船が就航するようになると、次第にその座を明け渡していったとされています。


「境港之真景」を詳しく見ていくと、興味深いことが分かってきます。

用意したのは、このセット。

『境港之真景』と『山陰商工便覧』と・・・・・・「虫メガネ」!

北前船10


「虫メガネ!?」、そうなんです。
字が小さすぎて、見えないんです。"(-""-)"

拡大しながら、良~くみてきましょう!( `ー´)ノ

北前せん12

様々な船の往来が見とれます。

境港之真景詳細2

「小学校」、「警察署」、「裁判所」、また様々お店などの名称が記載されています。

境港之真景詳細3

その中で
「第八十二國立銀行」、「植田回漕店」、「武良回漕店」、「渡邊回漕店」、「香川旅館」と記載されており、実は次に紹介する『山陰商工便覧』にお店の銅版画が掲載されています!


では、明治20年に出版された『山陰道商工便覧』の銅版画を見ていきましょう。( `ー´)ノ

山陰商工便覧


【 第八十二國立銀行 】
第八十二國立銀行2


【 植田回漕店 】
植田回漕店


【 渡邊回漕店 】
渡邊回漕店


【 香川旅館 】
香川旅館


『境港之真景図』からは見つけることができませんでしたが、その他にも『山陰道商工便覧』には、様々な商いの様子が描かれています。



『境港之真景図』と『山陰道商工便覧』を照らし合わせると、当時の活気がより伝わってきます♪








『山陰道商工便覧』に描かれている「武良回漕店」の武良惣平さんは、『ゲゲゲの鬼太郎』の作者:水木しげる先生の三代前の曾祖父にあたる方です。
当時、回船問屋を営んでおり、この地域で算出される「鉄」や「伯州綿」を関西や東北地方に北前船で運び、商いをしていました。

【 武良回漕店 】
諸国回漕店 武良惣平


武良惣平さんは、各地に「引き札」を残しています。
「引き札」とは、現代のチラシ・広告に相当しており、元禄年間(1677­-1704)頃に始まったとされ、文化・文政年間(1804-30)以降盛んにつくられていたといわれています。
それまでの広告といえば、看板や暖簾・口上ぐらいであったものが、商品の流通の活発に伴い大店をはじめとして商店が「引き札」を配るようになりました。
明治30年頃の船問屋武良惣平らの「引き札」が加賀地方でも発見されています。

「引き札」を見ていると、当時の活気が伝わってきますね。(*^_^*)

引き札3枚組
(「引き札」・武良惣平・山本貞市・黒見繁吉)




北前船により「伯州綿」は様々なかたちで運ばれました。
種を取っただけの「繰綿」や「糸」や「白木綿(布)」、また、輸出量は少なかったとされていますが、完成品としての「弓浜絣」まで含まれていました。
境港では素材から製品までのすべてを生産・移出することができたのです。

北前船


このようにして「伯州綿」は、弓ヶ浜の綿栽培に適した風土と港という地理的条件によって、大きく生産を伸ばし、全国に名を馳せていきました。

北前せん14


最後に、
「境さんこ節」に歌われていた一部を紹介いたします。

境の港が「北前船」の交易により発展しことは、唄からもよくわかります。

♪♪♪♪♪♪

さても見事や 境の港
東の入口御台場で
西は御為替御倉なり
千石船でも横づけに
伝馬いらずの良い港
少し離れて遊亀町
玉屋に飴屋に丹波の茶屋・・・

♪♪♪♪♪♪♪

*伝馬=伝馬船(てんまふね) : 大型の船に付属して陸岸との往来などの作業に従事する小型の船のこと。







はい!以上です!
「伯州綿」を中心に、「境の港の発展」と「伯州綿」をまとめてみました。('ω')ノ

今回も、かなりのボリュームになってしまいました。
お付き合いいただき、有難うございました。m(__)m


境水道大橋から、一望すると、
かつては「綿」が、この境港から「北前船」によって全国に広がっていったという歴史が、グッと近づいてくるような気がしました
。('ω')ノ

今回は、【 「境の港の発展」と「伯州綿」 】というテーマでまとめてみましたが、うまくお伝えできたでしょうか。(;'∀')
「伯州綿」にまつわる歴史を調べ、まとめる作業をしていると、この弓浜半島だからこそ、「伯州綿」の一大産地となれたのだと改めて感じます。


今後も、「弓浜半島」と「伯州綿」についてご紹介していきたいと思っています。
是非、お付き合いくださいね。m(__)m


では、また!

参考資料
『境港市史』
『新修境港市史(写真資料編)』
『山陰商工便覧』

フェイスブックも更新していますので、お見逃しなく!
境港地域おこし協力隊・伯州綿フェイスブック←こちらから

弓浜半島の成り立ち~伯州綿と砂州~

こんにちは!
仲里です。

このブログは昨年2019年12月29日に投稿したものです。
諸事情により、こちらに移動いたしました。

何卒、宜しくお願い致します。m(__)m


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こんにちは!

今年も残すところ、あと僅かとなりました。
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
私は、来年のことを考えながら、ソワソワしています。(笑)



今回は、「弓浜半島の成り立ち」と「砂州」がメインの話題となります。('ω')ノ
何卒、お付き合い願います!


いきなり、メインの話題からそれますが・・・・、
最近の私のブームは、弓浜半島(きゅうひんはんとう)に出来つつある「サイクリングコース」を走ることです!

潮風に吹かれ、白波が立ち、大山(だいせん)に向い鼻歌混じりに、自転車をこぐ♪
晴れの日にはもってこいの、気分転換となっております!

弓浜半島の成り立ち10

自転車に乗りながら、ふと思うことは、弓浜半島の綺麗さです。
名前の通り、「弓なりに砂浜が続く半島」♪
「サイクリングコース」を走っていると、その綺麗さが良くわかります。



こちらは島根半島からの航空写真。
綺麗に「弓なり」♪

弓浜半島成り立ち31


更には、大山の山頂からの眺め。
こんなに弓形なんですね♪
ここまでくると、かなり弓浜半島マニアですね。(;'∀')

弓浜半島の成り立ち16








眺めも素晴らしいですが、この「弓浜半島の成り立ち」も魅力的です。

弓浜半島は「砂州で形成されている。」とは、良く耳にします。
そして、この「砂地」のおかげで、「綿」の一大産地となったとも言われています。


どのようにして、綿作に適した土地「弓浜半島」が形成されたのか見ていきたいと思います。
弓浜半島の「砂地」にクローズアップです!

弓浜半島成り立ち36

私が暮らしている弓浜半島の成り立ちを調べていくと、非常に興味深い内容でしたので、皆様に紹介したいと思いました。(*^_^*)
是非、お付き合いください。






では、行ってみましょう!

前置きとして、「弓浜半島」はここにあります!(笑)
「日本」→「鳥取県」→「弓浜半島」

当然、伯州綿ファンはご存知ですよね。(笑)( `ー´)ノ

弓浜半島(日本地図位置)
(画像はGoogleEarthより作成)


弓浜半島の成り立ちについて、『境港市史』には、このように書かれています。

「中海と美保湾を分ける弓ヶ浜半島は、長さ約18㎞幅約4㎞の全国でも珍しい大規模な砂州と砂丘からなる半島で、地質的には第四紀層に属する沖績地である。」

半島の形成は、主に日野川による砂礫の供給、海面水位の変化、気象変化(海流、波風、洪水など)の影響により、現在の「弓の形」に至ったとされています。


図で説明すると、このような具合です。

弓浜半島成り立ち1
(図は『弓浜半島とその周辺』を参考に作成)

沖積層とは約2万年前の最終氷期最盛期以降に堆積した地質学的には最も新しい地層だそうです。
では、どのように「綺麗な弓の形」が作られていったのか年代順に見ていきましょう!

*「弓浜半島成り立ち」については、『境港市史』のなかで紹介されている佐々木謙氏の研究をもとにご紹介いたします。
(図は佐々木謙氏『弓浜変遷説明図』を参照しています。)


【縄文前期】
点線は、現在の弓浜半島を現したものです。
このころは、半島は無かったようです。

弓浜半島成り立ち2


【縄文期】
徐々に、砂礫が堆積し、島が出来ています。

弓浜半島成り立ち3


【弥生期(古墳・大和期)】
島や半島が広がり、伸びています。

弓浜半島成り立ち4


【奈良期】
もうそろそろで繋がりそうです。

弓浜半島成り立ち5


【平安期・鎌倉・南北朝・室町】
長い年月をかけ、「夜見嶋」は、日本列島とつながりました。

弓浜半島成り立ち6


【戦国・江戸中期】
ようやく、このあたりで現在の「弓浜半島」が出来てきました。

弓浜半島成り立ち7





こうして見ていくと、300~500年前頃に「弓の形」が作られたようです。
数々の条件が、合致して今の「弓浜半島」があるのですね。
まさに奇跡の半島!

うぅ~ん。
非常に感慨深いものがあります。(^_^;)

弓浜半島成り立ち31

このようにして「弓浜半島」は、「砂州」で形成されたのですね!(*^_^*)










ようやく、伯州綿の話題に戻ります。(笑)

この「砂地」が、綿の栽培に適していると言われています。


綿栽培における「砂地」の優位性は、『鳥取県の棉花』には以下のように記載されています。

「砂質は水はけが良いため、肥料の分解が早くなり、それゆえ綿は早熟となる。
さらに砂地からの反射熱により吐絮した棉花は繊維の撚曲が強くなる。
これにより弾力を増し、良い品質の綿が 生産されるのである。」
(『鳥取県の綿花』より。)

弓浜半島成り立ち37


実際に畑で作業していると、砂地からの照り返しは、非常に強いと感じます。(;'∀')
このような特性を持つ「砂州」で形成されている弓浜半島だからこそ、綿栽培の適地となり、「伯州綿」の一大産地となり得たのですね。(^_^)/~




「弓浜半島の成り立ち」と「伯州綿の砂州」について簡単にですが、まとめてみました。(*'ω'*)

弓浜半島の成り立ち19







話は弓浜半島のサイクリングロードに戻ります♪


弓ヶ浜サイクリングコースは2020年4月までに全ルートが完成する予定です。
日本海と大山の両方を眺めながら走ることができ、砂浜や松林の中を走る変化に富んだルート。傾斜がほとんどなく、初級者でも気軽にサイクリングを楽しむことができます。

弓浜半島の成り立ち11

弓浜半島成り立ち30
(画像は「とりネット」より転用)

疲れたら、浜辺のベンチで、ちょっと休憩をしたり、
さらには、境港の美味しい「海の幸」も堪能できます♪

「来たれ!全国のサイクリスト!」
弓浜半島が、サイクリストの「あこがれの聖地」になる日も近いもしれませんね。(笑)

弓浜半島成り立ち35



ここまで、お付き合いくださり、有難うございました。m(__)m

「伯州綿」は、土地の利を利用して一大産地となったことを考えながら、弓浜半島の「サイクリングコース」を走っていると、歴史に思いを馳せ、色々なことが想像できます♪






本年も残すところあと僅かとなりました。
今年も様々な活動を行ってきましたが、これも皆様のご支援のお陰であり、大変感謝しております。m(__)m
来る年が、皆様にとって良い年でありますように。

来年も「伯州綿」を宜しくお願い致します!


良いお年をお迎えください。
では、また!

弓浜半島の成り立ち20


参考資料
「境港市史」
「弓浜半島とその周辺」

フェイスブックも更新していますので、お見逃しなく!
境港地域おこし協力隊・伯州綿フェイスブック←こちらから

「弓浜絣」と「伯州綿」

こんにちは!
仲里です。

先日、「弓浜絣」の展示会に行きまして、
「弓浜絣」と「伯州綿」は、切っても切り離せないものであると改めて感じました。
今回は、私なりに「弓浜絣」(ゆみはまがすり)について、まとめてみました(^^)/

*ブログの内容は、以下の資料を参考にしています。
『新鳥取県史』、『境港市史』、『手わざ 6弓浜絣』
紹介する画像は、「鳥取県」と「米子市立山陰歴史館」からご提供いただいています。

弓浜絣15



それでは、行ってみましょう!

「弓浜絣」(ゆみはまがすり)は、
鳥取県の西端にある弓浜半島(きゅうひんはんとう)で栽培されている「伯州綿」などから制作される織物です。
深い藍色の地に美しい白抜きの絣柄が映える織物で、 およそ300年前から何世代にもわたって受け継がれてきました。

弓浜絣51



今回は、鳥取県の伝統的工芸品「弓浜絣」を深堀りしていきます!
少し長いですが、しばしのお付き合いを~( `ー´)ノ

弓浜絣4






皆さんは、「弓浜絣」と聞いて最初に思い浮かべるもの何でしょうか。

弓浜絣36



おそらく、一番初めに思い浮かべるものは、何といっても「多様な絵柄」ではないでしょうか。

弓浜絣の絵柄は、鶴亀松竹梅、花鳥風月、幾何文等と様々です(^^♪
絵絣が中心で、日常生活の中のあらゆるものが絣模様にアレンジされています。

弓浜絣35



この様々な絵柄には、多くの思いが込められています。




ここで、少々時代をさかのぼり、昔のお話を。

かつて、機織りは女性の手で行われていました。
家族のために、より良い着物をと願いと、愛情を込めて「弓浜絣」を織り上げたといいます。
また、嫁入り道具としても、「弓浜絣」は重宝されていました。
嫁入りの際に、着物や寝具などの新しい寝具を持参することが慣例とされ、その描かれた柄は、縁起の良い吉祥文が中心だったといわれています。
家族へ愛情の表現が「弓浜絣」の絵柄になったといっても過言ではありません。

弓浜絣4柄



いくつか例を挙げますと、


【 船の錨 】(ふねのいかり)

娘の結婚式には母親は、永い人生航路を二人でともに白髪の生えるまでつれそい幸せであるようにとの願いをこめて、船の錨をかすり模様に織り込んで贈り、前途を祝福したと言われています。

弓浜絣39



【 鷹 】(たか)

男児を出生すると、松の枝にとまり獲物をねらって飛び立とうとする鋭くたくましい鷹の柄に、新生児の名前を織り込み、この子が将来鷹の如く雄々しく強く育っていくことを願って布団や着物にと心を込めたと言われています。

弓浜絣9



このように「弓浜絣」は、願いをこめて、大切に織り上げ、大切な人に贈られていたものだったのですね。
改めて絵柄を見ると、様々な思いが広がっていきます。( ;∀;)







次に、「弓浜絣」は、どのような織物なのでしょうか。

少し専門的な表現になりますが、
弓浜絣は、先染め平織りの織物です。
「先染め」とは、布の状態ではなく、糸の状態で染めを行うことさし、「平織り」とは、タテ糸とヨコ糸とが交互に重なり合う織物のことをさします。染め分けをされた「かすり糸」で織り上げ、様々な絵柄を表現していきます。

弓浜絣7


「弓浜絣」は、非常に多くの工程を経て、作られています。
画像をふまえて、見ていきましょう!(^^♪

弓浜絣の製作工程を図にするとこのようになります!
とにかく、たくさん!( ゚Д゚)

弓浜絣57




「弓浜絣」の完成までには、「糸つむぎ」「くくり染め」「織り」など、多くの工程を経てつくられます。 その中から、主な工程を紹介します。( `ー´)ノ




【 糸つむぎ 】
原料となる緯糸は、伝統的な紡車を用いて手により紡がれる糸や、機械により紡績された糸を使用します。
ヨコ糸は10~12番手の綿糸を使い、織り上げられています。

弓浜絣21


【 かすり糸 】
「かすり糸」は、「くくり」という糸の染付の防染技法により、染め分けが行われています。
染め上げる糸を束にして、白く染め抜く部分をヒモ等で巻きつけます。くくられた箇所は、染料の浸透を防ぎ、これにより様々な絵柄の表現が可能となります。

弓浜絣27


【 藍染 】
「弓浜絣」は、主に藍で染付を行います。
糸を幾重にも重ね「綛(かせ)」と呼ばれる糸の輪を作る。綛に竹竿を通し、絞り回転させながら染料を浸透させていきます。
綛(かせ)を地面にたたきつける「ブツ」とよばれる作業をおこない、時間をかけて染料を浸透させていきます。

弓浜絣25


【 はたおり 】
「たかはた」と呼ばれる手織機や足踏み織機を使い、絵柄を合わせながら、丁寧に織り上げていきます。

弓浜絣23


ふ~う。説明しているだけでも、とても長く感じます。
このように「弓浜絣」は多くの工程を経て、大切に織り上げられているのですね。
( *´艸`)








最後に、「弓浜絣の生い立ち」です。
その生い立ちについて定かではなく、弓浜絣の発祥は諸説が存在しています。

弓浜絣6


一つには、山陰の絣は米子の車尾(くずも)の里に始まったといわれています。
当初、藍作りが導入された弓が浜地方では、宝暦年間(1751~)から灘飛白(なだかすり)の生産が始まり、寛政年間(1789~)には米子の車尾で絞木綿(しぼりもめん)の生産が始まりました。これがやがて「弓浜絣」となったという説があります。

また一つには、境港は、日本海側の重要な寄港地であったため、北前船によって、他の地方の紺絣技法が持ち込まれたという説があります。

藍については、江戸時代後期の文政(1804~18)には米子付近でも葉藍の製造が行われ、鳥取藩では、米子の尾高町新小路に藍の製造場である藍座を設置し、藍玉を製造しました。
天保7年(1836)頃には、会見郡(現在の境港市および米子市、西伯郡の大部分)に133軒の紺屋があったと記録に残っています。
幕末から明治中期にかけて、「綿作り」や「弓浜絣」の生産は最盛期を迎えました。

弓浜絣5

初め「弓浜絣」は農家の唯一の衣料であり、晴着であり、常用衣であり、野良着として使用されていましたが、後に換金性のある副業として発展していきました。
それに伴い、様々な絵絣が農家の女性たちの手によって織られ、絣の技法はさらなる進歩を遂げたました。正藍で染め上げた「弓浜絣」は、洗えば洗うほど丈夫になり深い色を出したといわれます。

弓浜絣52


鳥取県の弓浜半島で300年前から受け継がれてきた「弓浜絣」は、国の伝統的工芸品や県の無形文化財の指定を受けて、今日も生き続けています。




はい!
長い内容になりましたが、いかがでしたでしょうか。
歴史の観点からみても「弓浜絣」と「伯州綿」は、決して切り離せないものなのです( `ー´)ノ
「弓浜絣」の製品それ自体も、とても素敵ですが、「絵柄」に込められた思いや、生産背景などを知ると、さらに魅力が引き立ちます♪

現代の「弓浜絣」は、着物や反物だけではなく、ブックカバーや名刺入れなど日常で使えるアイテムが揃っています!
歴史と今に思いを馳せてしまいます(*'ω'*)

弓浜絣53

今後も、様々な展示会がありますので、皆さんも伝統的工芸品の「弓浜絣」に触れてみてください!
是非、「伯州綿」も、よろしくお願いいたします。(笑)


最後の最後に、「弓浜絣」と「伯州綿」のワンショット(*‘∀‘)

弓浜絣56


では、また!

参考文献
『新鳥取県史』、『境港市史』、『手わざ 6弓浜絣』

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伯州綿ができるまでを「予習」、「復習」しましょう!

こんにちは!
仲里です。

今期の伯州綿の芽が出てきましたね。
そして、日中は30度近くになり、とっても暑いです!


伯州綿の畑では、発芽ラッシュとなっています。
ここで、伯州綿の発芽から綿が弾けるまでを、一気に紹介していこうと思います。

綿予習40



このたびの内容は、伯州綿マスターであれば周知のこと!(*^_^*)
「栽培は初めて」といった方へ向けた内容となっています。
初めての方は「予習」、
伯州綿マスターは「復習」という感じで、ご覧ください!









と、その前に!('ω')ノ

まず最初に、「綿クイズ」を出します。
小学校で伯州綿の授業を行った時に、出題したものです。

伯州綿マスターは、間違わないと思います。(笑)

綿予習18

小学生の正解率は約2割!(笑)


それでは、出題します。



綿クイズ
「綿の仲間は、どーれだ?」



三択です。


①タンポポ

綿予習1

②オクラ

綿予習2

③ネギ

綿予習3


さぁ、ちょっと待ちますね・・・・・・・・・・・・・・・・・。













ハイ!

答えは②
「オクラ」です!

綿予習2


子供たちの答えは、「①タンポポ」と、「③ネギ」が大多数でした。
ねらい通り。( *´艸`)




少し専門的な話になりますが、
伯州綿(綿)はアオイ科に属します。
オクラもアオイ科です。

参考までに:
綿は、アオイ科ワタ属
オクラは、アオイ科トロロアオイ属


「同じアオイ科です!」といわれても、「綿」と「オクラ」って全く似ていないですよね。(*^^)v

そこで、伯州綿とオクラの「花」を比べてみました!

最初に「オクラの花」。

綿予習4

次に、「伯州綿の花」。

綿予習5


こんなに似ているんですね。
少し離れてみると、ほぼ同じように見えてしまいます。


植物の種類を、端的に見分けるには、「花の形状を見る」と本で読んだことがあります。

実は、南国の花「ハイビスカス」も、同じアオイ科なのです。
やはり、「花の形状」は似ていますね。



綿予習6

参考までに:ハイビスカスは「アオイ科フヨウ属」




ここで、クイズは終了。
少し「綿」に興味をもっていただけでしょうか?





それでは、本題の「伯州綿の8か月」の紹介をして行きましょう!


伯州綿の栽培は、このようなスケジュールで栽培が行われます。

綿予習23

5月のゴールデンウィーク明けから、種を蒔き始めます。

綿予習7

綿予習8


5~7日ほどで芽が出てきます。
この時期は、可能な限り株廻りの土はいじらないようにしてください。
除草等で、根を傷めてしまうと育成不全となってしまいます。

綿予習9



次第に本葉が出てきます。
本葉が数枚出てきたところで、「間引き」を行い、元気の良い一本を残します。
このときにも、根を傷めないように伸長に行います。

綿予習10

梅雨にはいると、生長の速度が遅くなってきます。
この時期は、根をしっかり生やす期間です。
土の下では、しっかりと生長していますので、心配はいりません。


梅雨の時期が明けると、ぐんぐんと生長してきます。
と同時に、周りの雑草もぐんぐん生長して行きますので、日々の除草作業は欠かせません。




摘芯・追肥

「摘芯(てきしん)」は生長点を摘み取る作業のことです。
この「摘芯」をすることで、より多くの綿を収穫することが可能となります。

綿予習11

綿予習12

追肥は生長の速度を確認しながら、「追加」する「肥料」のことです。

綿予習13




どんどん生長していくにつれて、ギザギザした葉っぱとは違う形のものが出現します。

ちなみに、伯州綿の葉っぱは、このような形をしています。

綿予習14


ギザギザしたもの、これは「蕾(つぼみ)」です。

綿予習15

この蕾が、次第に「花」→「コットン・ボール」→「綿」となります。

「花」
この時期に多くの花を咲かせることで、多くの「コットンボール」を実らせることができます。

綿予習16

「コットンボール」

綿予習17

「綿」となります。

綿予習18

最初に綿が弾ける位置は、おそらく下の方からだと思います。
初めうちは子粒の綿が弾けますので、見逃さないようにしてくださいね。(*^_^*)

綿予習25





【閲覧注意!!】
(虫の画像が出てきますので、苦手な方は飛ばす又は、薄目でご覧ください。(/_;))





気を付ける害虫の紹介です。






初期に困るのは、「アブラムシ」です。
農業公社では葉裏に牛乳散布を行い、アブラムシ対策をしています。

綿予習20





綿の生長と共に出現してくるのは「葉巻き虫」です。
葉がクルクルッと丸まっていたら、その中には葉巻き虫が入っているかもしれません。
その場合、気が付いたら速やかに除去しましょう。('ω')ノ

放置しておくと、写真のように綿木全体が、「葉巻き虫の巣」になってしまうこともあるのです。(/_;)

綿予習22



最後に、収穫量の目安です。
(あくまで、目安です。 m(__)m)

一本の綿木からの収穫量の目安ですが、
境港市農業公社では、一つの綿木から平均して30個の「綿の実」の収穫を目指しています。

綿予習24


そのため、30個を実らせることが、栽培結果の目安となります。
しかし、その年の状況により、60個以上実ることもありますので、「綿の実」の数は、あくまでも目安です。('ω')ノ







ふ~ぅ。
伯州綿の栽培紹介しましたが、ちょっと、情報が多すぎましたね。(´Д`)

今後も時期ごとに紹介しますので、ブログの内容を忘れてしまっても、全然OKです。
!(^^)!


このたびは、「伯州綿栽培」の「予習」、「復習」という感じで、まとめてみました!


綿予習41


徐々に気温が高くなってきました。
皆さま、熱中症にはお気を付け下さいね!
('ω')ノ


では、また!


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「伯州綿の生長カレンダー」も、お見逃しなく!
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